多様性を受け入れるカメレオン性を持った建物

朝日町にあるあの洋館はなんだ!増殖する和洋折衷建築

という記事では「旧佐藤医院」の建物自体に注目しました。

ここは表が洋館で裏が和風建築、病院であり、住居でもあるという風に、一見継ぎはぎだらけにも見える和洋折衷建築で、文脈に沿って増殖していった形跡が見られすごく生物的な香りがするというようなことを書きました。

この記事では、じゃあ今度はもっと建物の内面的なことについて考えてみようというものです。

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見る人によって「ここがどんなところ」なのかが変わる場所

旧佐藤医院に足を運ぶ人の中には、稀に住みたいとおっしゃる方や、カフェをやればよさそうと言う方や、塾にできそうとかおっしゃる方なんかがいて、なんやかんや色々な見方があるようです。

それは願ってもないことで、そんな風にそれぞれが自分にとっての価値を建物に見出し、好きなように使ってほしいというのが、コミュニティスペース「旧佐藤医院」の柱となるコンセプト。

実際ここは、どれくらいの「見方」を飲み込める場所なんでしょうか。

例えば僕はこのお屋敷の涼しさが「オフィス」に良いと思い、特に暑い午後などを中心にここで読んだり書いたりをします。

ふと、息をつくと、ああここ「病院」だったんだよなーと思って、そこに一人だと気付き若干ゾクッとしたりもする。怖い話が好きなので無駄に怖い方向に考える節があるのです。

「ここがどんなところなのか」を限定してしまうことにあるリスク

僕の話はどうでも良いのですが、この、人によって、状況によって、あらゆる見方があるということはとても大事だと僕は思います。

「ここはこういうところ」と決まってしまえば、そこには「そういう人」しか来られなくなってしまいますからね。

多分人の出入りで言えば、はっきりと、空き家を利用した「カフェ」をオープンしたと言った方が多くなるのでしょう。

しかしそうすれば、そこには「お客さん」しか来なくなります。

効率的な画一化よりも、多様性を受け入れる土台を作る方がずっと大事。

なぜなら、定められてしまった価値は、用済みになった途端、必要以上に価値を無くしてしまう、と僕は思うからです。

「温泉が出る町」から「温泉」がなくなったらどうなるでしょう。その町の価値は絶対に温泉だけではないのに、傍からみると「温泉を取ると何もない町」になってしまいはしないでしょうか。

少なくとも、温泉がなければそこに行く理由も一緒になくなってしまうのは、言ってしまえば当たり前ですが、あまり意識されないところなのかなと思います。

多様性の受け皿としての場を強く意識して

こんな風に「町」という大きなフィールドに話を広げることに違和感を持つ方もいらっしゃるかもしれませんが、10000分の1スケールのまちづくりという記事でも書いたとおり、僕は旧佐藤医院は町のミニチュアのような存在だと思っているのです。

町だって多くの人が行き交い、それぞれにとってそれぞれの価値が合わさったコミュニティスペースです。

ある人にとっては仕事場であり、ある人にとっては実家であり、ある人にとってはレジャー施設という風に、あらゆる「見方」を受け入れている。

そういう受け皿としての万華鏡感が、良い町の条件だと僕は思う(そういう意味で言えば都会には敵わないので、僕は都会のそういうところが好き)。

一方地方は、ややもすれば、分かりやすいブランドを求め勝ちです。○○の町という風なキャッチコピーは必ずと言って良いほどあって、それは決して悪くないんだけど、「画一的な見方を要求するやり方」は相手をも画一化してしまう行為で、用済みになったときゼロになるというそれなりの危険が伴うのだと思います。

その結果が地方の過疎の原因の一つなんだと思うんですよね。

カメレオンの皮膚のような建物

「旧佐藤医院」は人によって背景を変えるカメレオンのような素材でできています。

この人にとってここはリラックスできるカフェで、ある人にとっては学校で、またある人にとっては仕事場である。

生物的な香りって冒頭の方で書いたけど、「旧佐藤医院」の内側の壁がまるでカメレオンの皮膚のような素材で出来ているって考えたとき、少し気味は悪いけどどことなく魅力的に感じる、のは多分少数派で僕今気持ち悪いこと言ってるみたいなんだけど、本気でそう、「ここはこういうところ」というキャラクターが掴み切れないところとか、全ての人に都合よく合わせる八方美人な感じとか、そういう人格みたいなものがあるように見えるのは人間的で良いなと思う。

多様性を受け入れるカメレオン性を持った建物(完)

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