誰かの気分に反応するまちをデザインしたい。

このブログには根本のテーマとして「まちづくり」があります。

だけどそれは「このまちにどうやって人を呼ぼうか?」とか、「どうやって移住者増やそうか?」という視点ではあまり語られません。

だって、どんな方法でもとにかく人が来れば良いというわけでもないし、移住者が増えることはそりゃ減るよりは喜ばしいことかもしれないけど、僕に関係ある?ということでもあるから。

言ってしまえば人が減ることも同じ。

僕が地域の税収を管理する立場にいれば何人増えたとか誰がいくら稼いでるとかは気にするかもしれないし誰でも良いから人増えて欲しいって思うかもしれないけど、人口が増えたって町に観光地ができて色んな人が遊びに来るようになったって僕にはほとんど関係なく、関係がないから関心も薄く、あまり熱心に考えることができません。

「まちづくり」をテーマとするからには「良いまちをつくる」というのが当たり前なのかもしれないけど、そこで言われる「良さ」って漠然としているし、漠然とした良さを求めたら社会的な価値に偏ることになってしまって、「良いだけ」のまちになるんじゃないか。

「良いひと」だよねって女性に言われたら恋愛対象外とか興味ない人って証拠だよって聞いたことあるんですけど、漠然とした「良さ」を目指すってそういうことで、良くも悪くも無害にしかならず、人の感情に訴えかける上では避けなきゃいけないことなんじゃないのか。

みんなに好かれるんじゃなくて、他ならぬあなたに好かれたいと思ったら、まちも自然に偏ったりすると思う。

僕はそういうわけで良いまちづくりに興味はなく、「好きなまち」づくりをしたい。

そのスタンスを踏まえた上で聞いていただきたいのですが、このブログでは「まちづくり」とか「コミュニティとは」とか言ったテーマに加え、下位テーマとして個性とかも話題にすることがあります。

端的に言えば「これが好き」っていう感情や、「ただの好み」で繋がれるコミュニティがあれば、その色に染まった地域ができるよねってことを考えていて、前回の ファンが集まるコミュニティ。信者が集まるコミュニティ。 は、そういうコミュニティを作る上でこういうことに気を付けなきゃねということを書いたつもりです。

この記事ではこれだけ書ければ十分なのですが、もう少し詳しく「まちづくり」や「コミュニティ作り」そして「個性」のようなテーマとの繋がりはあるのか?を考えていこうと思います。

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まちの一角を文芸の色に染めたい

最終的に僕の身の回りをどんな色に染めたいのかというと、「文芸の色」です。

僕は小説とか映画とかお芝居とかが好きで、一日の大半を読むか書くか観るかして過ごしています。

かと言って自分がそういう界隈に人より詳しいと思っているワケではありません。この分野にはちょっとうるさいよみたいなプライドもあまりありません。

僕が好きなのは「そういう時間の使い方」とか「そういう空間」なんだと思うんです。空気。ムード。

例えば、学生時代にはみんなで体育館に行くより教室で本を読んでる方が好きだったとか、空き講の時間は専ら図書室にいたとか、休みの日は本屋さんに行くのはお決まりだったとかそういうこと。

本が好きとか映画が好きっていうよりは、多分僕の場合、その空間が好きなんだと思います。図書館行っても本読まないで寝てたり、映画見ないのに待ち合わせ場所にしたりしますから。

また、本を読むことが趣味の人とか、お休みに映画に行きたくなっちゃう人に対する好感度も無暗に高いということもあります。

結局同じことなのかもしれないし、本が好きだから本のあるところが好きなのか、本を読むに相応しい空間が好きで実は本があってもなくても構わないのか、分かりません。どっちもで良いと思う。

この感じをこじらせて、自分で本書いて自分のオリジナル図書館作って、本を書く人とか読む人みんなが心地よく過ごせる場所をデザインできたら僕の満足感すごいんじゃない?っていう目論見をゆっくり考えるのがこのブログなわけです。

なんかこの感じは最近になってかたまってきたもののように思うので過去と言ってることは違うかもしれませんが、今のところ明確に言葉にできる部分というのはこういう感じです。

普通の変な人が集まる場所

言うなれば、僕の「こういう感じが好きだ」っていうのは、そのまんま僕の個性だと思います。

もちろん僕だって複雑な人間の一人ですから個性の中のひとつ程度のものかもしれません。でもこうして言葉にしている以上、人に言える明確な個性の一つだと思う。

その個性から派生して、というか個性から逆算して、なんとなく僕という人間のタイプが分かるのではないでしょうか。

どちらかと言えば大人しい人間である、多人数よりは少人数ないしは一人を好む、人間嫌いではないどころか好きなくらいだけどコミュニケーションには臆病な方である。

人見知りだけど意外に初対面だと平気(久しぶりに会う友達が一番ハードル高い)。悩みは尽きないが好きで悩んでいる傾向がある。よく言えば客観的に物事を見られるが、悪く言えば当事者になるのを嫌い、口だけ頭だけのところがある。

こうして挙げていけば行くほど類型が出来上がって、自分のことを書いてるのにいつのまにか世間によくいる人の典型の一つになる。

「これが好き」「こういう空間が好き」という主体性を持った個性を持ち寄って、そこから派生する性質を並べて一箇所に集まると、客観すれば特殊な一角となり、主観で見れば平凡な人間の集まりとなる。

例えば図書館にいる人のことを変な人だなーと思うことは絶対にないと思いますが、全人口から見れば図書館に足を運ぶ人は少数派で、変な人です。

そういう、ごく普通の変な人が集まる場として、自分の身の周りをデザインするには?と考える。

ぼくの社会的な価値を求める部分

んーでも、「まちづくり」というからには、というのはあります。

これも僕の多面な要素の一つで、本当に本とか映画とか「そういう空間が好き」なら自分の部屋で満足してれば良いと思う。

でもそうじゃないということは、多分に「社会的な目論み」もあるということです。

社会的というとまた違う感じがするけど、自分だけではなく、他者を満足させたいという気持ちもあるということ。

それも突き詰めれば自己満足だし誰かと共感したいというのもエゴでしかないんだけどそういう話は置いといて、特殊な誰かの生活の延長線上に図書館があるように、誰かの人生の一場面に「まち」があったら良いと思う。

それがどうして社会のためになるの?他者のためになるの?と言えば、根拠も意味もあまりありません。

だけど、意識的にだろうが無意識的にであろうが人には「そこに行く理由」が必要で、反対に言えば「そこに行く理由」がなければ人は動かない、と僕は僕の感覚で信じてる。

また、明確な理由がなければどこにも行かないのに、常にどこかに行きたいという漠然とした気持ちを強く持ってるのが現代に生きる僕たちだと思う。

そういう所在なさがいつもあって、どこかに何かないかなと探していて、満足以上のぴったり感に出会うと嬉しい。

そういう誰かの性質が放つセンサーに反応するためには、まちも遠慮なく個性的である必要があると思う。

これも人で例えることができるんじゃないか。何となく、この世には自分にぴったりの人がいて、どこかに(自分だけにとっての)良い人がいると信じていて、いつか会えると思ってる。

現実に信じてるかどうかは置いておいて、「この世のどこかに私を待ってる人がいる」という感覚はみんな持ってるものだと思うし、明確な何かではなく、そういうものは何となくの感性で察知するものだと思う。ビビッとくるというヤツでしょうか。

社会的な価値ではなく、私だけの好ましさで、人は何かを決めることがあるということだと思うし、訪れるまちにもそういう感じがあれば良いなと思っています。

過剰に運命的な

もう少し我がままを言わせてもらえば、コミュニティ作りとか言っておきながら、「つながり」が前提にあるのは嫌なんです。

社会的な部分を大事にする自分もいるのなら、つまり「他者とのつながり」が重要だと考えるなら、読書サークルとか、愛好会に入れば良いようなものです。地元の文化ホールみたいなところでひっそりとお気に入りの本持ち寄ってあーでもないこーでもないやってれば良い。

だけどそうしないのは、「つながり」が前提にあるのが嫌だから。

伝わってるかどうか分からないけど、いまぼくはかなりロマンチックな話してますよ。

どこかに良い人いないかなーって言ってる誰かに、じゃあ婚活パーティでも行けよとか、どっかでナンパしてきたら?とか相当無粋な人しか言わないでしょう。

本とか映画とかそういう文芸的な何かが好きな人同士で繋がるコミュニティが欲しいと言って、じゃあ読書サークルでも入れよってのはそういうことです。

いやいや今言ってるのは、不意に、偶然、なんとはなしに、期待してないのに訪れる出会いのことだから!って。なんも分かってないなと。

婚活パーティ行ったらそりゃ誰かとは会えるかもだし「良い人」には出会えるかもしれないけど、私にとってのぴったりな人間との出会いは出会うところからすでに運命的なのだ。

僕の頭がまちづくりについて考えてるのは、コミュニティ作りについて考えるのは、まさにこういう夢見る乙女な領域です。

人とつながるためにつながる場を作りたいのではなく、自然に主体性を持って好きなように生きる誰かの人生の延長線上にあって、いつの間にかつながる誰かにいつか会いたいという迂遠な、幾分ものがたり的な何かを求めている。

何かが起こりそうなまち

長くなっちゃうからまとまってないのに唐突にまとめに入るけど、本が好きな人が休日図書館や本屋さんに自然に足を運ぶように、映画が好きな人が気付いたらゲオとかツタヤについ足を運んでしまうように、「まち」も「自分の個性と、その人生」の延長線上にあったら良いなと考えています。

それぞれがそれぞれの目的とか行く理由を持ってそこを訪ねれば、本人は気づかないかもしれないけれどそばには「つながりのある誰か」がいて、客観的に、俯瞰して見るととても縁のある誰か同士が集まった独特なコミュニティが出来上がってる。

人はきっと何を目指すでもなく目指しているものや探すでもなく探しているものがあると思うのです。

どこか行きたい、なにか美味しいもの食べたい、なんか面白いことしたいって漠然とした要望をする人がいると思うけど、それって特定の何かを指してこれなんかどう?と言われてもたいてい「そういう気分じゃない」ですよね。

気分という機能を使っている瞬間が僕らにはたくさんあると思うのです。

これができるとか、これがある町というより、誰かの気分にぴったりな、気分だけでできたような空間をデザインして、漠然と何かがありそうな感じ、何かが起こりそうな感じがするまちづくりがしたい。そういう意味で「文芸の」に染めたいと言ってる。

誰かが個性を持って訪れれば、化学反応みたいなのが起きてその場でその人が来たから発生する何かが生まれるような、変な機能を持ったまちが作りたい。

目指してできるようなものではないかもしれないけど。

誰かの気分に反応するまちをデザインしたい(完)

見せるタイプのメモ

「気分」は変わるものだから、人のあんな気分こんな気分に寄り添う地域がたくさんあれば、人は気分に従って動いたりできるんじゃないか。

目的を持って、何かをしに行くばかりではなく、気分を満たすという、カタルシス的なものを求めて、音楽をかけるように目的地を選ぶことができても良いのでは。

特に北海道の話だけど、景色の変わらなさに驚く。

僕らの気分が一瞬で変わることがあるように、どこかに足を踏み入れるとガラッと変わる空気みたいなのがない。

RPGに出てくる町みたいなのを求めているのかもしれない。

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