小説的な疎外された場所からの視線について

水曜は僕が住む町の歴史や風土を研究した上で、それをもとに小説を仕上げようとする日です。

完成予定は来年、2017年3月31日なので(2017年3月31日現在、絶賛挫折中)、気長なコンテンツとして見守っててください。

メインが一年間スパンの企画なので、毎週水曜のコンテンツは「取材のこと」だったり、「創作論」的な話だったし、「アイディアのメモ」とかだったり、または「訓練で書いた小説の披露」だったり、多岐に渡ります。

今日の記事はブログに書くほどじゃないなとは思っていたのですが、小説内の僕の立ち位置や視点について考えたことをメモします。意味不明の恐れがあります。

スポンサーリンク
スポンサードリンク

疎外感のある立ち位置を大切に

そもそも、「小説にしよう」と思った動機の一つに、祖父母に昔話を聞いているときに感じた「疎外感」がありました。

疎外感と言うと変に聞こえるかもしれませんが、知らない土地を訪れたときに感じる異物感みたいなものを自分に感じたというのがより正確です。

さらにマイルドに言えば、ジェネレーションギャップとかカルチャーショックみたいなものを感じ、端的に「分からない」と思った。

おそらく、祖父母間では共有できているけど言葉にできていない(あえて言葉にしない)あれこれが僕には想像できないくらいたくさんあって、そういうものの上で昔話をするから、僕には表面上のことしか分からない。

基本的なところが共有できていない。急に知らない土地に来てしまったみたいだ、という不思議な感覚がありました。

この感覚は大事にしようと、漠然と思ったということが、うまくは説明できませんが、小説という形式に至った一つのきっかけだったような気がします。

親和性のある感覚

疎外感というのは、僕にとってとても親和性の高い感覚のようです。

きっと、誰にでも一つくらい、お馴染みの感覚ってあるのだと思う。それが僕の場合は疎外感なのかもしれないと思いました。

これじゃ可哀想な人みたいだけど、お馴染みというだけあって疎外感には何となく安心する気持ちがあります。寂しいとかそういうことは感じなくて、むしろ僕は輪の中に入ってしまうことに不安を覚えます。

お前は仲間だと言われると引いてしまう、一緒にやろうと言われるとプレッシャーになる。

だからなのか昔から所属するのが苦手で、避けてきた傾向にあります。

一匹狼と言えばカッコイイですが、残念ながら僕はそんな感じではなく、誰かがいなければそれはそれで寂しいという中途半端な性格です。

よく知ってる人なのに、誰だか分からなくなる

この疎外感が行き過ぎたときに起る現象なのか、あるグループ内にいてよく知った人同士で話をしていても、ふと「この人たちは誰なんだろう」と感じることがあります。

文字にして書くとすこし怖いかもしれませんが、僕の中ではあまり深刻なことではありません。

もちろん目の前にいる人の情報は分かっています。

名前も、どんな人なのかも、もちろん思い出とか話した記憶もあるし、自分との関係だって分かっている。

だけど「誰なのか分からない」のです。

やっぱなんか気持ち悪いな文字にすると。

もっと詳しく言えば、どうして今僕はこの人と同じ空間にいるんだろう?とか、どうしてこの人と僕は会うことになって、当たり前に知り合いになっているんだろう?とか、本当にこの人は存在するんだろうか、という風に漠然とした疑問が湧いてきます。

ちょっと待って病気かも(脱線)

書いててなんか不安になったので、急きょ「よく知ってるのに誰だか分からなくなる」と検索してみました。脱線するようだけど。トップはあるyahoo知恵袋の質問のページでした。

この質問者さんは過去にトラウマになるような出来事を負っているという話ですが、僕にはそんな経験はありません。だからこの方と同じだなんて思うのは失礼かもしれない。

でも、「目の前の人が誰なのかは分かる」、「情報は分かる」、「でも誰だか分からない」「その人自身が分からない」というところはよく分かる。

「離人症っぽい」とこの方は書いていますが、僕はそんな病名があるなんて知りませんでした。

離人症でも一応検索。

離人症性障害の症状や原因・診断と治療方法

あー多分、離人症なのかな?症状としては分かる。超軽度の離人症なのかもしれません。

でも別に僕は困っていませんし、病名をつける必要性も感じないので無視します。質問者さんも同じような感覚のようです。

この方と僕が同じだと言う訳には行きませんが、「よく知ってる人なのに誰だか分からなくなる」という感覚自体は普通に存在するもののようでとりあえず安心しました。

むしろ僕が感じる程度の現実感の喪失なら、少なからず誰にでもあるんじゃなかろうか。

観察し語れば小説になるのではないか

すいません本題に入ります。

この見ようによってはちょっと病的な「疎外感」は僕が物事を見るときの自然な資質ですから、大事にしようと思います。

これは僕の中では決してマイナスの感覚ではなく、疎外感の中にこそ僕が落ち着くところがあるので、積極的にそこに向かいたいのです。

例えば、何人かがおしゃべりやらゲームやら何でも良いけど、なんか盛り上がってる、とする。

僕はその中に混ざりたいとは全然思わずに、そういうのを見ていたいのです。もしくは聞いていたい。その中に引っ張り込まれると、僕は落ち着きがなくなります。

昔から割と蚊帳の外にいたり輪に入れない僕に気を遣って、優しく誘ってくれたり引っ張り込んでくれる人がいたんだけど、そういうのありがたいのですが正直勘弁してほしかった。ほんとありがたいと思ってたしその気持ちは変わらないのですが、ただ勘弁してほしかった。

僕は口を挟む必要もなく、いるともいないともなくそこにいて、でも人に興味がないわけじゃないからよく見てたいし、把握してたい。

このスタンスを保ち、ある特定の時代とか地域とかを観察し、語ったとき、それは小説になるんじゃないだろうか、と思ったのです。

それが言いたかったんだ今日は。

よく知ってる人なのに、誰だか分からなくなる(完)

スポンサーリンク
スポンサードリンク