ものがたり的な視点

「ものがたり的な視点」とでも言うようなものを持っていたいなと思う。

それは、人生をものがたり的に見れば、失敗や苦労や不満、うまくいかないこと、つまらないことと言ったあれこれも面白おかしくなったりするんじゃないかという考えが基本です。

『アンナ・カレーニナ』の有名な冒頭が思い出されます。

すべて幸福な家庭は互いに似通っているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸の趣を異にしているものである。

ものがたりとなり得るお話しには、それ相応の「不幸」が必要です。

そこに趣がある限り、それは語るに足るものがたりとなる。

人の不幸は切実であればあるほど人の心を打ち、言い方は悪いですが「面白く」なります。

僕らの人生も、困ったこと、うまくいかないこと、つまらないことだらけだけど、それを面白くする視点というものはあるのではないかというのがこの記事で書きたいこと。

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ものがたり的と言われても自分の不幸は楽しめない

「いやそうは言うけどさ、言ってることも分かるけどさ、それではいそうですねって自分の身に降りかかる色々なトラブルを面白おかしく感じるなんて無理でしょ」とまともな人は思うはず。

確かにそう。

こんなこと言ってる僕だって、あらゆる不幸を背負っていると言っても過言ではないけど、別に面白くないです。

いや明らかに過言でした。

多くの凡人は語るまでもない不幸に見舞われているのが普通だと思う。旅行行きたいけどお金ないとか、あの子のことがすごく好きなのに全然脈を感じないとか、端的に不細工だとか。

僕は今、主に書くことで苦しんでるよ。どうすれば良い文章が書けるだろう、面白い話ができるだろう、誰かに褒めてもらえるだろうって考えてるけど、否定されるならまだしも、あらゆる挑戦が無かったことになってしまう切なさを抱えている。

そんなときの僕はかなり独りよがりで、世を恨み、他人を妬み、眠れぬ夜を過ごす(うそ寝てる)。

こんな僕は僕なりに不幸を感じてるけど、こんな僕を見たって誰も面白くもおかしくもない。

趣のない、凡人らしい不幸を抱えているよ。

人に注目される不幸には関わりたくない

じゃあ、いっそ多くの人に注目される不幸を持っていたり、お話しになる不幸を持っていれば良いの?

壮絶で、飲みの席どころかどこかの大ホールでもその話をしたらたちまち会場が笑いの渦に巻き込まれるとか、日本中で大ヒットの感動映画になるような不幸だったら良かったの?

そんなの望んでるかと言われたら望んでない。全然望んでない。

人に楽しまれればオールOKかと言われれば、それほどエンターテナーでもない。

日々の生活でうまくいかないこと、自分だけのちょっとした問題のほとんどは誰に注目されることもなく、ただただ小さく不幸で、思い通りにいかないという点でもどかしく、モヤモヤっとするだけ。

だからこそ、と言って繋がるかどうか分からないけれど、「ものがたり的な視点」を持ってたいと思う。

小さな他人事を自分事に

せめて僕がこれから会う誰かのことは、身近な存在になるだろう縁ある人のことは、感情豊かに見る目が欲しい。

小さな小さな悩みとか、取るに足らない不満とかに趣を見出すセンスを持っていたい。

このブログは「まちづくり」をテーマに掲げていて、こないだ起業もしたもので、仕事を通して色々な人に会いたいなと考えています。

道北の小さな町(今もう人口1200人くらいかな?)に人が来るなんて考えるのは難しいけれど、もしここまで来てくれる縁ある人がいたら、僕はその人の人生に微かにでも彩を加えたい。

字面ほどキレイなこと言ってるわけじゃないです。

僕が言っている「ものがたり的な視点」というのは、例えばクラスメイトの誰かがテストなのに筆箱忘れたみたいな小さな不幸に見舞われたとき、めちゃくちゃズーンってなってる本人のヤバいよーって感情をある程度一大事にしたい。

伝わらなそう笑

取るに足りない不幸も、なんてことない間違いも、「見る人」がいるだけで、お前めっちゃズーンってなってたよなーって人がいるだけで掬われる(救われる)こともあるんじゃないかなってこと。

別に良いことではなかったけど、あながち無駄じゃなかったかなみたいに思えるような。

小さな他人事を自分事にして、笑い話にしたり無駄に悲劇にしたりしたい。

小事を大事に

考えてみれば子どもの頃はそんな感じだった気がするな、と書いてて思いました。

限られたメンバーで、限られた空間で一緒にいると、自然にあらゆる小事が大事になって、毎日なんかこっかあって面白かったような。

大人になるに従って、自分は自分、他人は他人という感じが強くなって、取るに足らないトラブルに付き合ってる暇はないし、大きなトラブルには巻き込まれたくないし、どんどん距離を取るようになって、そういう共同体みたいな感覚がなくなってしまったなと。

そうでなければ仕事上の利害関係みたいなものに飲まれてしまった感があるなと。

これは会社とか社会人サークルとかに所属しない僕だからこそ感じることかもしれなくて、世の中のみんなはもっと仲間って感じの集まりがあるのかもしれない。

だから僕は一人であるが故に、そういう感じを求めてるだけかもしれない。町にそういう感じが欲しいなって。

小さなフィールドの中で、限られた空間の中で起こる出来事を最大濃度で語り尽くす、ものがたり的な視点とも言うべき姿勢があれば、きっと多くの人の人生がちょっと面白くなったりするんじゃないか、という予感がある。

この点について、今度もう少し詳しく考えて書いてみよう。

ものがたり的な視点(完)

※見せるタイプのメモ

すべての人生は物語的で

すべての物語は人生的

「ものがたり的な視点」があれば、すべての人生に独特の意味(納得?面白み?)を与えることができるかもしれない

そのためには利害がないまま深く関わる「フラットな観察者」という立場が必要。

他を理解する努力を怠らない創作者としての目が必要。

フラットでいるためには?

夏目漱石が至った境地「則天去私」は客観性を保ちフラットな思考をするための創作論

に繋がる?

フラットでいるためには?

「身の安全が保たれていること」は重要なポイント。

利はなくても観察者は困らないが害があれば身を守るしかなくなるから。

あまりに遠い存在を理解するのは身の危険に繋がる。

そのための個性であり嗜好でありこのブログである。

まちづくりの視点を忘れない。

あくまでどんなコミュニティー(人とのつながり)をまちに作りたいか?が大問題である。

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