運命論とブログを書くこと/僕らが運命と呼ぶものについて

ブログについて

「あれ、おれなんでこの人と一緒にいるんだろう?」という気持ちに襲われることが頻繁にあります。

これは特別な感覚ではなく、少々大げさかもしれないけど今までにあった全ての人に感じた感覚だと思う。

幼い頃からの友達でお互いにお互いを知ってることが当たり前の人といたって、不意に「あれ、なんでおれ今この人と一緒にいるんだ?え誰だこいつ?」と感じることがあるくらい。

目の前にいる人の実在を疑うというか、「その人を知っている」という当たり前の事実を疑いたくなるというか。

大人になってから知り合った人であればその感覚はもっと強く、現状に至るまでの自然さと、今目の前に誰かがいて、お互いに認知しているという不自然さのギャップにパニックが起こりそうになります。

そういうときは例えばこんなことを考えます。特定の誰かをモデルにするといろいろ不都合そうなので適当に例をぶち上げるとこんな感じ。

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この人といるワケを考え出すと因果が遡っていく

あ、なんで今この人とご飯食べて喋ってるんだろう!

えーと、Aさんと今こうしてご飯を食べてるのは、まあバイトが一緒で、なんやかんやで仲良くなったからだよな。

えと、でもそもそもバイトするようになったのはBさんに紹介されたからで、じゃあBさんに会ったのはいつだっけ?あ、大学だ、大学の、なんの講義だっけ。

てかじゃあもしあの大学に行かなかったら、Bさんと同じ講義を受けなかったら、Bさんにも会ってなかったってことで、てことはAさんにも会わなかったということで…

つまり、Bさんに会った時点でAさんと会うルートは生じていて、そもそもBさんに会うルートは大学を決めた瞬間、合格した瞬間、受講する講義を決め、適当に席を決めた瞬間に生じていて、じゃあ大学を選んだのはそもそもCに一緒の大学行こうって誘われたのがきっかけで…ってことはあの瞬間BさんともAさんとも会うことになっていたってことだよな…

いやいや待てよ、Cと同じ高校に通えたのは親がこのまちにいるからだよな。じゃあ親がこの町にいるのはなんでだ?

って考えていくとどんどん因果が過去に遡って、目の前にある人との関わりがまったく違和感のない必然のようにも思えるし、仮に過去に戻って狙いすますように出会おうとしても無理、と感じる程度には奇跡のようにも思える。

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運命論とブログを書く選択

こういうの、宿命論とか運命論とかって言うんだと思うんだけど、確かに、こう考えるとあらゆる物事は既に決まっていると感じなくもないです。

少なくともたった今の、なんの気ない選択が未来に繋がっていることは間違いなく、昨日の選択、今日の選択のいちいちが絶妙なラインを描いて、未来のたった一点へと向かっている最中ということになる。

これを踏まえて、突然だけどブログの話になります。

僕はいつか誰かと自分のまちで会う日のことを考えながらブログを書いています。

いつか誰かが僕に会いに来てくれたり、僕が作るもの(まちとその中で作り出した表現物)を見に来てくれたり、僕と一緒に何か作ってくれたりしたら良いなあって思いながらブログ書いてます。

週3回の記事の一つひとつが、未来に会える誰かと繋がっているという確信があるからこそ毎度同じくらいの熱量を持って書き続けることができる。

実感として自分のあらゆる選択が誰かと繋がっていることを知っているので、それをモチベーションにして書くことができるのです。

ただ、このブログは僕のだから、自分のさじ加減一つで更新を止めたり減らしたりすることができます。

つまり毎度毎度、記事を書く書かないという選択を強いられているわけです。

選択の余地がある状態で書いてるのだから、この点において、僕はある程度自分の未来を自分で選び続けているということになります。

それがいつか誰かとこのまちで会うためという意志があった上での選択ならなおさら、少なくとも何もしないよりは、運命というやつを味方に付ける努力をしていることになる。

運命は自分で引き寄せられる!で片づけて良いのか?

これは努力や習慣を肯定する考え方であると思います。

意思を持って取り組んだことの成果がいつ表れるかは分からないし、必ずしも自分が思い描いたような成果に結びつくとは限らないけれど、自分の選択は必ず未来に繋がっていて、今この些細な選択をした瞬間から、ある未来の一点へ続くルートが生じはじめる、ということは間違いない。

今日僕が、なんかだるいしあんま時間ないけど、まあでも、ブログ書くかーって決めた瞬間に、そりゃもう何を書くかとか決めるより前の段階で、未来のどこか一点に道が伸びたことになる。

意思の力はそれだけの可能性を持っていて、何かを目指し行動するということはそれだけでかなりクリエイティブだったりする。

いやいや、これはあまりにも考え方が直線的すぎるかもしれません。

なぜなら「何かをしない」という選択もまた未来の一点に繋がっているのだから。

例えば今日はブログ更新の日だけど、なんかすっごく面倒だしどうでも良く感じたのでサボりますという判断をするともなくしたことで巡り合える何かもあるはずなのです。

それは人とは限らなくて、本だったり、食べ物だったり新しい自分だったりして、そのおかげで生じる未来も当然ある。

あそこでバカ真面目にブログ書いてたらこうはならなかったなあってこともあるはずなのです。

意思も成り行きも納得の材料に過ぎない

結局何が言いたいのかと言うと、もちろんここまで書いたすべてのことを言いたかったんだけど、最終的に言いたいのは、「意思も成り行きも納得の材料に過ぎない」ってことです。

今この選択が未来に繋がっていることは間違いないのだから、それがどんな些細な選択だったとしても(ブログを書くとか書かないとか)、そこに意思があるのなら、少しは思い描いた未来へと繋がっているでしょう。

それは意思による努力や習慣が報われる可能性であって、これはちょっと自分に厳しくするきっかけになる。

そしてもちろん、意識的に何もしないとか、不調によりできないとか、勇気が出なくて一歩踏み出せないとか、結果的にし損ねるとか、もしかしたらちょっと残念に思えるような選択をすることになったとしても、それがなきゃ訪れない未来というのもある。

強い意思はないけど成り行きで行動し続けたらこうなった、っていうのも十分に運命的なことはある。

ああ、あそこで身体壊して入院してなかったら、病室で〇〇さんに会うこともなかったんだよなあ、みたいな。

こう考えると、なにせ色々な可能性を見比べることはできないのだから、運命は自分で変えたりすることもできるかもしれないけど、運命は自分の力ではどうしようもないものかもしれない、というつまらない結論になります。

運命と、運命じゃないもの

僕らが目の前の出来事を運命と呼ぶのは、その巡り合わせに疑問なり感慨なり不思議を見出すからであって、「あれ、どうしてこうなったんだっけ?」っていう因果に思いを寄せるからであります。

言ってしまえば興味のある事象にしか僕らは運命を感じないものですよね。

目の前にあるナニカについての来歴というか物語を意識し、何らかの意味付けをした上でやっと僕らはそれを運命と呼ぶようになるのだと思います。

だから、意思も成り行きも納得の材料でしかない、と僕は思う。

ならせめて、何かをやるもやらないも自由だし良いも悪いもないけど、いつも納得できるような選択ができたら良いですよね。

正しいとか間違ってるとかそういうのは僕らわりとあとでごちゃごちゃ自分の意識の方を改ざんして辻褄を合わせたりするのだからそういうのは後回しで、少なくとも納得できることをすると良いのかなと思います。

どう良いのかと言うと、自分の人生が運命に導かれているかのように感じられる可能性が高くなるし、物語に溢れているように見えてちょっと楽しくなったりするかもしれない。

「自己肯定感」って最近よく聞く気がするけど、そういうのも高まるのかもしれないですよね。

それがどう良いのかって言われるとちょっと返答に苦しむんだけど、納得できる人生ってもう芸術に近いと思うから、どう良いんですか、どう価値があるんですかって問う必要はないと思うんだ。「考えるな、感じろ」なのだと思うんだ。

 

運命論とブログを書くこと/僕らが運命と呼ぶものについて(完)

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