僕が臨む(望む)学問/個人で社会の仕組みまで作る時代に

時代の流れの先に創造社会がある。

最近「創造社会論」という講義ビデオを見ていて、創造社会っていう言葉を知ったんだけど、創造社会って急に言われても何となく意味分かりますよね。

今このブログの専らのテーマは「伝える技術」なんだけど、そのヒントというか鍵となる学問が「創造社会論」なんだと思う。

ということで、慶応義塾大学SFCのホームページから創造社会論の講義を視聴してみました。

すごく面白いんだけど多分ほとんどの方は見ないと思うので、講義を見て僕が得た「伝える技術のヒント」をこのブログでは書いて行こうと思います。

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パターン・ランゲージを抽出せよ

創造社会論っていう授業の課題は「パターン・ランゲージを提出する」ってもののようです。

別に単位を取るための勉強ではないですから、あくまで僕の目的に合わせて自分なりに課題をアレンジしてここに書いて行こうと思いますが、その前に「パターン・ランゲージ」って何?って話ですよね。

講義で説明されていた「パターン・ランゲージ」を僕なりに解釈すれば、それ自体がある概念の創造です。

で、そのある概念というのは、「成功法則」ということなんでしょう。

ここで言う成功というのは要所要所の難関を乗り越えるコツのようなものだと思います。

例えば、鉄棒の逆上がりがうまく出来ない子がいたとして、でも何回も練習してたらできるようになったとする。

その子は多分内側で何らかの「コツ」を得たんだと思う。

おへそに磁石が付いてるイメージをして、地面から足を離したら鉄棒にお腹がひっつくって思いこむ、とか。

またある子は鉄棒の前に壁があって、その壁を蹴って空まで垂直に駆け上がるイメージをするとかで逆上がりがひょいっとできるようになるかもしれない。

そういう「コツ」を持ってる子は、別の逆上がりできない子にそれを伝えられる訳です。

「おへそに磁石」とか「目の前に壁」とか言って。 そういう漠然とした成功法則を抽出して、このときはこうするといいよ、こう考えるといいよって感じで伝えるための言葉にするのが「パターン・ランゲージ」なのかなと僕は捉えました。

これはあくまで僕の解釈ですから、正確なことは是非講義をご覧ください。

創造社会論第1回

パターン・ランゲージについて書いてあるPDF資料もダウンロードできるし、本当はそれを引用しようと思ったんだけど、調子に乗って引用が増えすぎるとさすがに問題があるかもしれないと、今は引用の許可を打診してるところです(※後日許可もらえました)。

で、創造的な領域でもそういう小さな「成功のパターン」があるもので、そういうものを抽出したら「問題の解決」に役立つんじゃないか、創造社会に生きる我々のヒントになるんじゃないか、という講義が「創造社会論」です。

面白いですねえ。

学問は終えたと思い込んでいる大人が受けるべき講義の一つだと思います。

そもそも創造社会って?②

前回の記事でも井庭先生のブログから引用したりして、創造社会については説明したのだけど、この記事でも改めて、講義で先生が言っていたことを加えつつ、説明したいと思います。

創造社会っていうのは、消費社会とか、情報社会とかって言葉と並ぶ言葉なんだそうです。

数十年前は消費社会、そしてそれからコンピューターの台頭と一般への普及によって、情報社会となった。

確かにこの流れは分かります。

昔はモノを買うと言えば、ブランド物とかが一目置かれましたよね。

いやそれ以前に持ってることがステータスみたいなものが多かった。

時計とか車とか、家とかもそうかも。

その延長でブランド物があったのかな。物そのものに価値がある時代です。

だけどそういう感覚が段々ダサくなってきて、物を持ってること自体はそれほど価値のあるものではなくなった。

情報社会になると、情報を持っていることが価値になった。

物を買うにしても、誰も知らないけどハイセンスなものとか、マイナーなブランドだけど超自分に合うものを知ってた方がかっこいい。

で、創造社会になるとどうかと言うと、自分(もしくは自分に属する範囲の人)で創り出せるという部分に価値がシフトしてきている。

こんな説明を先生はしていました。

あ、物を持ってるかどうかとかブランド物を持ってるかどうかって基準がダサくなってきてとかってのは僕の私見ね。

こんな価値観の流れがある、という話をしていたのです。

で、これを聞いて思ったのが、そんな社会的な価値観の変遷に伴って、コミュニケーションを重視する風潮というか、コミュニケーションが担う役割が大きくなってるんじゃないかということです。

情報社会がコミュニケーションを重視するのは当然だと思うけど、創造社会がクリエイトするものは単なる物質ではなく、「コミュニティ」そのものだったり、「物語」のような、より概念的な価値なのではないかと思うのです。

そう言ったものを創造するに当たり、これまでの正解、正確さを求める情報としてのコミュニケーションより、もっと深い「共に正解を作る」コミュニケーションが必要になると思う。

てか井庭先生も「社会の仕組みを個人で作る時代だ」と言っていました。

そういうことなんだよな。

僕はそのために必要な理解する力とか姿勢、そして今テーマに掲げているような「伝える技術」のことを考えている訳だけど、「創造社会論」はそんなことを見越した次世代の社会で創造的であるためのコツを学ぶ学問だから、まさに僕が必要としているものな訳です。

少なくとも僕がこの学問をこう解釈することで、僕にとって大きなヒントとなることは間違いない。

重なる価値観

あと僕が思ったのは、社会に価値観の変遷って確かにあると思うけど、それってガラッと変わって前までの価値観が完全にぶっ壊れるわけではなくて、何となく乱暴に上に重なっていくものなのかなということです。

つまり、それぞれがステンドグラスみたいに模様があって、でも透けてて、上に別なものを重ねて行くとそりゃ一番上のものが一番よく見えるんだけど、目を細めて見てみたら下じきになってる二枚の絵も見えないことない、みたいな。

そんな気がするから、創造したものは何であれ、情報に乗せたり、物質的なサービスもしくはノウハウとして他人に与えるというプロセスが大事なんじゃないかなと思うのです。

だけどそのとき、やっぱり一番上にある価値観は創造社会であるワケだから、単純なサービスとか物質的な満足ではなくて、ノウハウとか出来るまでの過程の方により価値が置かれるようになるのではないか。

だから僕は「町づくり」に至るまでの創造的な過程をこうしてブログに残しておこうと思っている訳だけど、「創造社会論」というのは僕のやっていることを正当化する学問のような気がして、何と言うか、すがりつきたい気持ちな訳です。

そんなネガティブな気持ちもあるんだけど、やっぱり8割方は心から今こうしてああでもないこうでもないとやっていることが必要なプロセスであり、見せるべき部分だという確信があります。

だからそんな僕の意地みたいなものを冷静に学問している先生がいるということが嬉しくてたまらないという気持ち。

いやもちろん僕が恣意的に先生の学問を解釈してる可能性はありますが。

僕が臨む(望む)学問/個人で社会の仕組みを作る時代に(完)

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