これは町おこしについて考えているうちに町おこしに関心がなくなったブログです

このブログは北海道は士別市朝日町という、今は1500人程度しか人口がいない町で町おこしをするにはどうしたら良いか?ということを考えるためのブログです基本的には。

きっかけはそんな感じで、どうすれば人口増えるかとか知名度が上がるかとか考えてたんだけど、ブログ書いているうちに僕は全然そういう町おこしっぽい目的を達成する手段には関心がないことに気付きました。

今までにも

町おこししたい理由をなぜなぜ理論で考えたらものすごい初心に帰れた

とかで別に「町おこし」には興味ないとかって話はしてきたのですが、ブログのスタンスとしてちゃんと言っておこうかなと。

そしていかにして「町おこし」に関心がなくなっていったのかという流れを自分が思いか返しやすいようにまとめておこうとしています。

だからこれは途中経過報告であり、改めてブログの自己紹介的な記事となります。

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ステレオタイプへの過剰防衛

普通まちおこしとか田舎の移住促進とかってことを目論むならそういう話題をブログに書くと思うのですが、このブログはそう言った記事はとても少ないです。

そもそも朝日町で町おこしとか言う割に、朝日町の情報すらない。

写真も取らないし、施設の紹介も、地元の美味しいお店のなんちゃらとかも全然書かない。

書くことないと言えばそれまでだけど、よく言われるようにどんな田舎にも探せば魅力はあるものです。

そして発信の仕方によっては付加価値をつけることもできるでしょう。

でもそういうことはしなかった。

お節介焼きおばちゃんのお見合い的町おこし
まちの魅力を発信ってお見合いのときに優しくて真面目でって言われるのと似てるよね

でその変の思惑を書きました。

加えて、他の地域の町おこしの情報や、制度上のあれこれについてもあまり書きません。この町のこのアイデアが熱い!みたいなこと。関心が薄いからです。

それでもいくつかお手本にしたい「考え方」とか「在り方」はあって、それが消化できたら書きたいことはあるのだけど、今は優先順位低め。

のちにこういうのは書きました↓

町づくりのお手本「うらほろスタイル」に注目!でも真似しちゃダメ。
うらほろスタイルは町づくりの王道を行っているけど真似しない方が良いと思う

全体的には、タイトルを見ても記事を読んでもパッと見では筆者が町おこしを目論んでいるとはとても思えないブログです。

それは、「町おこし」とか「地域活性」とかというすでに一定の枠組みを持つ概念での理解のされ方が気に食わなかったからだと思います。

ああはいはいそっち系の人ね、今田舎とかブームだからねえ、良いんじゃない?何か面白いことしたら知名度上がるんじゃない?みたいな理解のされ方、とりあえず夕方のニュースで「地域活性」ってカテゴリーに入れてしまえば誰も文句言わないような理解のされ方を避けたかったのでしょう。

「町おこし」って概念がもうあって、その手段の吟味に終始するのも、どんな個人的なことでも人口が増えたりすれば「町おこし」のカテゴリーに収束してしまうのも気に入らなかった。

貪欲に分かろうとすること

世間がこしらえた枠組みに合わせた理解なんていらねえんだよなんてロックなことを言ってはいますが、だからと言って朝日町がこのまま自然に消滅してしまうような未来を指加えて見てるつもりだという訳でもありません。

関心がないのは、傍から見たときの「町おこし」のイメージをこっちからなぞっていくようなこと。端的に言えば、「どうやって集客するの?」という質問に答えるためのあれこれ。

それは結果であって目指すものではないと僕は思う。人が集まったり、お金を落としてくれる仕組みを作り出すことは僕のまちづくりのゴールではないと思う。

そんな正論めいたことこそ誰もが心得ているのだと思うけど、それでも人は結果でもって物事の正当性を評価してしまうものだとも思う。

僕は自分が生まれた自分の好きな町で寂しい気持ちになるのが嫌で、例えば地元の友達とかがもっと積極的に帰ってきたり、子育て期間とか仕事に疲れたりしたときに「帰ろうかな」って思えるような町になれば良いと思ってる。あと、一緒に住んでるじいちゃんばあちゃんの近くにいる口実探しみたいなところもある。

「自分の中の隠れた動機」を隠しておくのも面倒だから。

好きな人には暇だったら僕の町に来ませんかって自信持って言えるようになったり、休日の旅行とかって言っても消費するばっかりで予定をこなすだけで、得られる予定のものを淡々と得ていくという予定調和オンリーの日常に嫌気が差した人に非日常を与えることはできないかとか考えている。

もしくは、他人を職業で理解しようとしたり、所属で理解しようとしたり、そのどちらもなかったら「ニート」とか「スネップ」とかって言葉を採用して無理やり「そういう人象」を作って理解して安心する、怠け者だらけの世の中に疲れてしまった人なんかが、素の自分のまま立ち寄れる「フルサト」になれば良いなと思っている。

『フルサトをつくる』を読んで①/僕のブログはどんな人を見つけるのか

ひとそれぞれ職業とか所属とか状態とかそういうラベルみたいなのがあるのは別に良いし、それでその人を理解するのも当たりまえのことだと思うけど、「それ以上」の情報は求めてませんよー、別にあなたのパーソナリティに興味ないですよーって辺りが世知辛いと思うのです。

それすら実は強烈な思い込みなのかもしれないけれど、今まで書いてきたこととか無意識に選びとっていた話題を振り返ってみると、僕は人を理解したり人に理解されたりってことに現代の人は怠けすぎじゃないかと思うし、だからこそそういう、他人を理解したりすることに時間をかけたいと思っているのではないかな、と思います。

そんな考え方を裏付ける経験を絵本の里で知られる剣淵で得て、

剣淵の夜①絵本の里けんぶち/文明と文化~文化を創るということ

からはじめる一連の記事を書いた。そして朝日町にも僕なりの「文化的な土台」を作り出したいと思っているんじゃないかという発想に至りました。

「文化的な」という言葉を自分なりに解釈していくと、それが人を含め自分をとりまくものを何とかしてもっと理解しようとする営みだと思ったし、また同じくらい何とかしてもっと伝えようとする努力も必要で、それは必ずしも要領良くいくとは限らなくて、長い時間がかかるものなんだと思ったのです。

ちなみに剣淵行く前の日はこんなことを考えていました↓

「生きにくい世の中だ」とゴムの壁/剣淵の夜、前夜

そして現在は文明ってなんで崩壊するんだろうとか、文化的なものの役割ってなんなんだろうってことをもっと掘り下げて考えるべく、そんな記事ばかり書いているところです。

個人の問題と社会の問題を混同してた

こういうあれこれを経て、僕がやりたいことって全然「町おこし」じゃないって改めて思った訳です。

僕社会の問題と個人の問題を混同してた。
社会がみる田舎と、僕が見ている朝日町は違うのだ。
社会で言う「地方活性」と僕の考える「賑やかさ」は違うのだ。

たまたま田舎で何かやろうと思ったことや実際に考え出したことが「町おこし」とか「地域活性」とかになるのかなって自分から寄って行っただけで、よく見てみるとごめんなんか違ったわみたいな感じです。

僕の故郷が何もこの朝日町でなくても同じようなことを考えていたのだろうなと思うし、何をもって「町おこし」とするかは、それぞれが考えることであって決して町おこし達成の条件がある訳でもない。

結果的に町が賑やかになったり、大切に思ってくれる人が増えたりするのも大事だと思うし、どんな人に来て欲しいかを考えることも伝えることも大事だと思うけれど、それは伝えたいという気持ちと同じくらい、理解したいという気持ちを持つ人に開示されるべき内容だと思う。

分かりやすくなんかしたくない、しかし分かられたい。

そんな乙女心のようなものを持ったもうすぐ30歳になる男、ってさぞかし気色わるいと思うけど、こんな風に何一つ割り切れないままに僕が朝日町でやるべきと思われることを考えていくブログです。

 

これは町おこしについて考えているうちに町おこしに関心がなくなったブログです(完)

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