ライトノベルと一般小説の違いを読む側の姿勢から考える

中には、読書好きとは言ってもライトノベルは読んだことがないという人もいると思う。

だからってそういう人がライトノベルを見下しているのとも限らないのでしょう。

オタクが読むヤツでしょ?とか、萌え絵目当てで読むヤツでしょ?とか言ってる人は、少なくとも読書に関心がある人の中では少数派の気がする。

ちょっと用心深く言うとすれば、建前上ライトノベルというジャンルを認めていても、自分の中の「読書」という定義には当てはまらないという感じ(それって見下してることにならないの?と言われれば答えにくいけど、本人はそんなつもり全然ないはず)。

これまでもライトノベルと一般小説(ここでは大衆小説と純文学を区別しない方針)の違いは語られてきたと思うけど、例えば文体の違いかっていうとそうでもなく、一か所を切り抜いて見たらこっちがライトノベルで、こっちが純文学だなんて分かりません。

変な擬音を使うのはラノベとか言ってたら、じゃあ宮沢賢治はラノベ作家?って言われておしまい。

一般小説を書く作家がラノベっぽいミステリーを書いたり、ラノベ作家が本格っぽいSFとかを書いたりもするし、絵があるかないかの違いだとしたら児童文学に属するものの挿絵はどうなる?って話。

キャラクターが過度にデフォルメされてるとか、メタネタが多いとかラノベっぽい要素をあげ連ねていっても、じゃあこれは?って聞かれたら黙るしかないみたいな状況。

結局出版レーベルの違いなんじゃねえの、読む人が決めれば良いんじゃないのって話で落ち着いているようないないような。

つまり区別はつきませんっていうのが一応の結論で、これ以上話すことはないんだけど、やっぱり読書を嗜む人の根底にはこれはライトノベルだな、これは一般小説(純文学)だなっていう区別があるものだと思うから、作品を見て区別するのではなく、読む側の読書姿勢から小説のジャンル分けを考えたいと思います。

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受動的な読書と能動的な読書

ライトノベルと一般小説を比べると、まず違うのが読み心地ですよね。

ライトノベルの方が、名前の通り負担が少ない感じ。読んでいて楽で、実際けっこうな分量の作品でも半日とかで読めちゃったりします。

一方、一般小説というジャンルは若干読むのに苦労するのではないでしょうか。

言葉遣いが難しいとか、論理展開が難しいとかとは限らず、いわゆる純文学とかになると短くても読むのに時間がかかったりする。

このとき、やっぱ読書したなって感じるのは苦労して読んだ方だと思います。そして知的レベルが上がったなと感じるのも。

あんまりストレスなく読める作品だと、これ最初から漫画で良くない?とか、アニメで良くない?と感じたりすると思いますが、それだけ映像的で、あまり文学に触れたって崇高な感じがしないのでしょう。

でもさっき言ったように、ラノベと一般小説の違いは曖昧。

だからこそ読む方の態度にすべてかかってるのではないか。具体的にはそれが受動的な読書なのか、能動的な読書なのかの違いがあると思います。

受動的な読書とは

受動的な読書とは、小説世界を受け取るだけの読書です。

テレビを見ているようなもので、出来上がった作品を受信するだけの行為です。

ラノベに限らず、エンタメ小説と呼ばれる全ての小説は、受動的な読書を”許す”ものだと思います。

一方能動的な読書とは、ストーリーは道具として使われており、物語を楽しむのとは別に、小説を読むという行為を楽しむことを”許す”小説に当てはまる方法だと思います。

こう書くと、受動的な読書を軽んじているように見えるかもしれないです。言い方を変えれば頭を使わなくて良いということですから、それで読書とか笑っちゃうよねって言われてると感じる方もいないとは限りません。

しかしそれは誤解で、あくまでも受動的な読書を許す作品とは小説世界に没頭させるための仕掛けと工夫に溢れたものですし、それが文字だけで作り出されている世界は間違いなく芸術だと思います。

ただ受け取るというだけにしても、ストーリーを楽しむ、プロットを楽しむ、トリックを楽しむなどなど、見所はたくさんあるし、それらが混ざって頭の中で整理されていく感覚は特別な頭の使い方をしてると感じられる。

では一方で、能動的な読書とは具体的にどんなものか。

それは極端に言えば、こちらのリアクションが作品の出来上がりに影響する読書だと思います。

能動的な読書とは

小説を読んでいると話とは全然違うことが頭に浮かんでくることがあります。

話に集中できていないのとは違って、物語に呼応して自分の精神が刺激され、感情や思考がドミノを倒したときみたいにだららららっと流れていく感覚です。

もしくは物語を読んだあと、「新しい悩み」のようなものが生まれると感じることもある。

これは僕の感覚で、他の人はもっと違う言い方になるのかもしれません。でも似たような何か、物語とは別の、読むことで起動する何かがあるというのは極一般的な話ではないでしょうか。

だからこそ、一般的に難解だと思われがちな純文学などは、こちらが思考するという協力なしでは成り立たないものという点で実際に難解なのかもしれません。

しかし、だからと言って読書に慣れてない人は読めず、経験の豊富な人が読める崇高なものだとは思えない。

だって、経験の浅い子どもの頃の思考と、経験を積んだ大人の思考とには違いはあるがその状況での最大の関心事や最高速度の思考という意味で優劣はないはずだからです(もちろん絶対的な経験の差や知識の差はあるけど)。

読む人が思考する限り、その思考のトリガーである文は必ず存在する。読む人の違いに呼応し、玉虫色の輝きを持つ作品が名作として長い間読まれることになるのでしょう。

そういう意味で能動的な読書を許す作品は読む人のリアクションが必要なのだと僕は思っています。

読書という経験は誰かとの会話のような

ライトノベルと一般小説の差は、読む側の姿勢によって変わる。

ライトノベルと呼ばれるものだって、読書体験を通して変わる何かを感じることもありますし、教科書に載るような純文学だって、ただひたすらストーリーを受け入れるような読み方だってある。

受動的に読むか、能動的に読むかは人それぞれ、そのときそのときの気分の問題であって、文字や言葉はそもそもが曖昧であるが故に、読む側に呼応して形を変えるものだと思います(だから純文学をライトノベルチックに読むこともできる。春琴抄の春琴ちゃんは元祖ツンデレ、みたいに)。

その前提があって、さらにこちら側がどんな姿勢で読むのかによって、作品のジャンルが分けられるのかも。

ところで、能動的な読書とは人との対話に似ていると思います。

友達や恋人や、誰でも良いですが誰かと話すとき、その話す内容自体に着目することって考えてみればそんなに多くないのではないでしょうか。

誰かを飲みに誘って、「今日はどんな話する?」とかってわざわざ言わないはずだし、話しの流れとか、結末に注目することは滅多にないと思います。

いわば、一般小説におけるストーリーとは、飲みの席でのお話しなんじゃないかと。

もちろん小説ですからただの会話よりは筋を持ったストーリーや一貫した文体を持っていますが、それも例えば片思いの相手とのデートで、間を持たせるためにあらかじめあの話とこの話をしようみたいなことを考えたり、でも彼女の話も聞いてるって思われたいから相槌はこんな風に、って考えるのに似ている。

このような具合に小説におけるストーリーや文体は道具的であり、あくまで目的は対話(読書)を通して変化・呼応する何かを作り出すことなんじゃないか。

今日はあの人と一緒にご飯食べたけど、いまいち話の展開に驚きがなかったなとか、奥行きが足りなかったなとか、キャラクターが活かせてなかったなとは考えないと思う。

逆に、新歓パーティーや合コンみたいな一定のストーリーがある場面、場が作られていて、そこで楽しむだけという状況では内容が吟味されがちじゃないかな。

読書も同じで、ストーリーに着目すればその内容を吟味するかもしれないけど、行為そのものが目的であれば(読書が目的であれば)、内容はさして重要ではなく、「私」がその時間を通して得たものに注目するはず。

だから、ライトノベルと一般小説の違いは、本との接し方においてディープな対話と捉えるか、ライトなパーティと捉えるかっていう、こっちの心構え的な問題なのではないかとか考えました。

ライトノベルと小説の違いを読む側の姿勢から考える(完)

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