僕らは不安だからコミュニティを作るのだろうか

コミュニティを形成しようとする動機の、最も根本にあるのは「不安」だと思う。

反対に言えば、コミュニティを作ること、コミュニティの一員であることは「安心」なんだろう。

思えば幼い頃から僕らはずっとコミュニティを作ってきました。

クラスでは何組かのグループが自然にできると思うけど、早くどこかに属さなきゃと焦るあの感じは明らかな不安感情で、自分と同じ領域に属する誰かといるのは言いようのない安心があった、と思います。

とは言え僕はコミュニティに属するのが苦手なタイプなので、実感としてあるのは、クラスの中で1人2人とても安心できる友達がいて、その人といるときの安心感です。

以下の記事は丸ごと自分語りで何なんですが、高校時代の僕はこんな風だったというのを書いたので、お時間ある方は是非読んでみてください。

高校でぼっち飯生活を選んだ僕が守ったポジションと後悔について

この人は「こっち側だ」と思える人が一人でも傍にいると、自分以外の人がうじゃうじゃいる環境でなぜかちょっと自信を持って歩くことができて、陽気に振る舞えたり、大らかでいられたりする。

反対に「こっち側」にいる人が一人もいないとき。私は今一人である、というとき、何となく卑屈な気分になるし、大きな声も出せなくなる。

コミュニティを作るという行為は物心のついていない幼い時から自然に行っていて、大学に行っても、社会人になっても、いくら歳を重ねても、規模の大小はあれ、同じように行われる、と僕は思います。

コミュニティは「自分」の延長であって、「こっち側」が多ければ多いほど自分も実際より大きく感じるから生きやすく感じる。

一人である、ということは反対に実際より自分が小さく頼りなく感じることで、それは実際的な問題よりもっと漠然とした「不安」となって僕らに迫るのではないかと思います。

これまでも、人は何らかに対する生存戦略の手段として、コミュニティを作るのだと思ってはいました。しかしそれはもっと建設的だったり文字通り戦略的な動機であって、不安を退けるためのコミュニティ形成という視点は僕にありませんでした。

でもコミュニティを形成しようとする裏にある「不安」を受け入れれば、どんなコミュニティを作りたいのかが分かるような気がするのです。

現代において問われるのは、ただ固まるという領域はとっくに越えていて、コミュニティの継続、コミュニティの能力の最大化の部分だと思います。

噛み砕いて言えば、そのコミュニティ内の人間がみんな心地よく生きるためにはどうすれば良いだろう?という部分。

自然に寄り集まったコミュニティでもたいがいうまく行くと思うんだけど、ただ隣り合ってという理由ではなく、意識的にコミュニティを作ることができる、もしくは作る必要がある現代では、「固まってるからコミュニティ」ではなく、「コミュニティだから固まる」という理屈の逆転が起きかねないので、形を維持するためにそのマネジメントを意識する必要があるということ。

しかし、それもまだ洗練されているとは言い難くて、さらに考えなければならないのは、「形を維持するマネジメントなんて意識しなくても自然に継続するコミュニティ」の在り方です。

自然に隣り合ったわけでなく何らかの意志の下に形成されたものなのだけれど、それがあたかも自然に、クラスで隣の席だったからとか、そういう運命的な理由で形成されているかのように見え、感じられ、ずるずるとうまく行くコミュニティって何だろう?という部分。

コミュニティの核ってなんだ?

総体的には揺らいで見えても、決して崩れない人間関係の核となる部分ってなんなんだ?

きっと相性とか、そういうものなんだと思います。

こんなことを考えたのは、結婚をしてからです。

家族というのが最小単位のコミュニティであるのなら、結婚って言わばコミュニティ契約なんだろうな、と思ったわけです。

不安感情がコミュニティ形成の裏にあると思ったのは、多分僕が結婚することで一種の安心感を抱いたからというのもあるでしょうが、「もしかしたら、結婚をしないで不安になるのは当人よりもその親とか親戚なのかもしれないな」ともふと思ったというのもあります。

この時代でもまだ親とかじいちゃんばあちゃん世代は結婚はするのが当然で、それがあるべき姿だと思っているような節があって、やはり年頃になると、「あとは〇〇が結婚すればね」みたいな、まるで「結婚しない」という選択肢はないとでもいうような言い方をするのを聞くことがある。

そう考えると、親とかを安心させるための結婚というのもあるなと思うし(僕らもそういう側面が無いとは言えない)ああ、好きだから結婚するというより、結婚という形ありきで、結婚するためには好きじゃなきゃならない、みたいなことはあるよなあ、とも思う。

「固まるからコミュニティになる式」ではなく、「コミュニティだから固まらなきゃ式」の人間関係の作り方が、結婚という最小単位のコミュニティ形成の場合でも起こりうるのではないか。

後者の、意志を持ったコミュニティ形成に必要なのは、じゃあどうすればお互い気持ちよく生きられるか?そのためにはどうしたら良いか?という点だと思います。

結婚という目的があって、まずそれに漕ぎ付けるには、そして、その形を維持するにはどうしたら良いか。そのために何ができるか。婚活や、これから結婚に踏み切るぞという場面で問題となるのはこのテクニカルな部分なのかもしれない。

しかしさっき言った通り、それも洗練されているとは言えない。あまりにも形を維持することに固執し過ぎていて、目的がブレている。

仮にあらゆるコミュニティ形成の動機が不安にあるのだとしたら、結婚という形にだけ不安解消を求め、根本的な安心感は得られなそうな気配がする。不安ではないけど安心ハッピーというわけでもないという感じ。言うなれば、自分が小さくも感じない代わりに、大きくも感じないという感覚。

この感覚は身に覚えのある方も多いと思います。

新学期、中学から高校に上がった四月、大学の初授業日、一人だと心細いから、不安解消のため適当に盛り上がってそうなグループや何となく声かけてくれた子に付いていっちゃって、心細さは減ったけど心細さをみんなで覆い隠そうとしてる感じがあって、別にこの子たちと一緒にいても面白くないなあ、って思っちゃう感じ。マイナスではないけどプラスでもないなあって。

でもゼミも一緒だし、なんかサークルも一緒にとか言ってるし、一つでも断ったら契約終了なのかなー、みたいな。あバイトしよ、バイトあることにしよ、みたいな。そんでほんとにバイト探そ。そんな経験ある人多いと思う。

結婚の話に戻れば、多分恋活アプリとか婚活アプリもだからどんどん進化してて、これまでの結婚の「条件」とは違う、もうちょっとファジーな部分でもってカップリングできるようになってるんだと思います。

好きなもの・休日の過ごし方・許せないもの・つい買ってしまうもの、などなど。

人間関係を維持する核は条件ではなく、嗜好や志向のマッチにある、ということだと思います。

僕が自分のまちで考えるまちづくりは=「コミュニティ作り」と言って良いと思います。

多分その動機の根本にあるのも、「不安感情」なのだと思う。

僕の嗜好は文芸であり、そういう場所への憧れがある。

小説・文学・本棚・書斎・執筆、などなど。

そういうものに囲まれる場所で、文芸にどっぷり浸かって生きたいと感じるときに抱く不安がある。

文芸に浸りながら生きることは本当にできるのだろうか?

生きられないのなら文芸はやはり役に立たない分野なのだろうか?

自分が生みだしたいと思っているものは誰かのためになるだろうか?

自分の理想にいつまでも辿り着かなかったらどうしよう?

この不安は一人で抱えなければならないのだろうか?

僕は今までこの不安感情に気づかないフリをしながらまちづくりとかコミュニティについて考えてきましたが、僕はここで書いたような不安を解消したいという気持ちがあるのだろうと思います。

それは、何人かが集まれば解決するようなことなのか?

いいえ、例えば文芸で生きるための具体的な方法、のような戦略的な発想も必要だし、そのためのコミュニティも必要とは思いますが、今の僕のコミュニティ形成の動機は、ただ「自分と同じ側にいる」と思える他者と知り合うことなんだと思います。

いつも一人で考えて、いつも一人で決めなきゃならないみたいな不安があって、闇雲に文芸に逃げているところがある。そんな感覚を共有して、ときに一緒に不安を解決したり、突破したりする誰かと会いたい。

その理想のために、僕は僕の嗜好や志向を大事にして、例えばこうしてブログなどで発信することが大事だと思う。

僕らは不安だからコミュニティを作るのだろうか(完)

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