自分のいる場所に疑問を持つ人たちはいつもちょっと不安げ/お化け屋敷みたいな文章

僕が仲良しだと思っている人たちの共通点を探してみれば、「その場にいることに疑問を持っている」ような人たちかもしれないと思った。

「その場にいること」というのは、もちろん単純な場所ではなくポジションのこと(カタカナ語になっただけで意味ちょっと変わるの面白いですよね)。職業や年齢や趣味と言った、一応その人の人となりを表す表面的な記号で表すことができる立ち位置のこと。簡単に自己紹介してくださーいって言われたときに求められる部分。

いや、それよりもっと漠然としたものかもしれないです。

そこにいれば当然そうするといった細かいことの集合というか、自然な成り行きとか、思わず手にとった靴とか、悩みの種とか、極パーソナルな、人になかなか見せられない部分。

そういうところにまで注意を払って、なんやかやと「あれ、自分ってこうだっけ?」っていう疑問を持っている人が多いような気がする。

付き合いが長い分、僕にも少なからずあるそういう部分に呼応してそういう側面が目立って見えているという可能性もあるけれど、僕が理解したいように理解すれば、あの人たちにはそういう部分があるから、僕が一緒にいて安心できるんだろうな、と思う。

「安心」という言葉が出てきたから言ってしまえば、僕が仲良しだと思っている人たちはどことなくいつも不安げなところがあるように思います。一歩一歩を信頼していないみたいな。

僕の勝手な解釈に巻き込んだ上にこんなことを言うのは失礼なことこの上ないんだけど、「自分に疑問を持っているように見える」のだから当然かもしれない。ふとしたときに不安げな空気を出すことがあるのです。

そして何より救えないのが、僕自身、そういった不安げな空気を人に見ることでこそ安心するということです。そういうところにこそ魅力を感じるし、一種の信頼感に繋がっているような気もする。そして一緒にいて楽しい。

別に心の闇とかそういう大袈裟な話じゃないし傷のなめ合いってほどのことでもない。「不安だよね」って部分を共有できるだけで安心というかちょっと楽しいというのは普遍なことじゃないか。

一つ角を曲がると何が出るか分からないお化け屋敷で頼りになるのは怖いもの知らずの、前をズカズカ歩いてくれる人じゃなくて、ずっと一緒にビクついてくれる人の方だよねって感じのことを言っています。

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一緒にビクつく、みたいな記事を書きたい

もしかしたらここまでの文章を読んで、「常識に囚われない人への称賛」とか、「自分を持っている人の共通点」みたいなものを書くつもりかこいつは、と思う鋭い人も若干いるかもしれないけど、できればそういう話にしたくないと思っています。

ここがまさに「僕が自分に疑問を持っている部分」なんだけど、何かを書こうとすると必ず一定の型というか、当然の成り行きみたいなものがあって、「自分に疑問を持つ」とか「ポジション(場)に依存しない」みたいなことを書けば当然のように「個性」とか「主体性」の存在が浮き上がってくる。

そういう人たちと仲が良いと言えば、そう言ってる自分自身が個性的で主体性を持っているのだと言いたいか、魅力的な人たちはやっぱり個性的で主体性を持った人たちだと主張したがってるように見える。もしくはその両方か。

そしてそういう成り行きを感じ取った何人かの人たちの中で、「自分に疑問を持っている」という自覚がある人は、一種の救いを求めてこの記事を読むのかもしれない。

自分もことあるごとに不安を感じてしまう、その場の成り行きに対して潔くなれなない、何かを演じているようで空虚な気持ちになる、自分は社会の迷子な気がするという経験に寄り添うことや、それって実はこの先の時代では長所なんですよ的なことが書かれているかもしれないという期待を込めて読む。

もしくは、自分に疑問を持つことないどころかむしろ「自分に疑問を持つ」とか「その場にいることに疑問を持つ」と言った漠然としたフレーズにピンと来もしない、こんな輪郭だけみたいな話が苦手であろう身近な人たちのことを頭の中で考えて、そういった人たちを腐する素材をこの記事に求めるのかもしれない。

そういう読者や、読者の欲望を想定して記事を書くのがブログの基本なんだろうけど、それをいつもしてしまうと、僕が不安になるからできない。これ書くの僕じゃなくて良くない?っていう不安がたち現われてしまう。

ブログを書くときは、「ブログという場(媒体の作法)」を尊重して、それに相応しい振る舞いをしなくちゃならないと思うしそれが楽なんだけど、一方でそいう型に従うことに不安を覚える(王道の型を意識して背くのも一つの型で、本当は型をマスターしてからたどり着くべき境地なのかもしれないけど)。

僕がそんなだから、僕が書くべきは仮に同じようなことを日常や人生で感じている読者の方がいれば、その感情を払拭したり肯定したりしようとするのではないと思う。

だってそれってお化け屋敷で「どうせこんなん作り物でしょ?」とか言ってズカズカ前を歩く人っぽいから。

ほらこう捉えれば疑問も恐怖もないだろ?な?すごいだろ、ってのは、頼りになると思いきや、冷めることすんなよこれでも好きでビクついてんだよって感情もどこかで湧いてしまう。

一緒にビクつく、みたいな記事を書きたい。

怖いね怖いね最悪だよもうゲッソリだよって言い合いたい。でもちょっと面白かったよね、みたいな。

だからってどう書けば良いか分かってる訳じゃないし着地点も見えないのが目下の問題ではある。

不安があると成り切っても成り切らなくてもダメ

もちろん嫌われたいわけじゃないけどはっきり言えば、僕が思う一種の人たちは全然潔くないし、思い切りも良くないし、あーでもないこーでもないと思っている(言っているのではなくあくまで思っている)ように見える。

「こうすりゃ良いってのは分かってるんだけどねー、なかなかうまくできないよ」って実際に言うこともあって、それは能力の問題ではなく多くがプライドの問題。プライドの問題と言うのも語弊があるかもしれない、矜持の問題と言えば近いか。この場合は同じか。

やったら良いことをやったら良いんだけどそれやったら自分じゃなくなるんだよなみたいなところでつまづくから、なかなか突き抜けたことができない。

本当の理想の自分になる方法は知ってるのに、その方法はきっと自分以外の誰かのものであって、それをなぞると本当の理想の自分にたどり着けなそうな気がする。

成り切れないからこそダメなんだけど、成り切ったらもっと別のベクトルでダメになるという感覚があって、どっちを取るかはまさにプライドの問題なのかなと。

でもプライドがあるからこそ成り切らなきゃならない場面もあるのだから、それができないのは社会的に言えば子どもなのかもしれないですよね。というか「大人」というのも一種の社会的なポジションであって、それを全うするにはそれなりの思い切りがいるということです。

これはさっきかっこの中で、「王道の型を意識して背くのも一つの型で、本当は型をマスターしてからたどり着くべき境地なのかもしれないけど」って書いたのに繋がるんだけど、基本や型や既定路線に従うことが気に食わないからってむやみに自己流とか言ってるだけだったら、結局のところ何者にもなれなずどこにもたどり着けない半端モノになるというのと似てる。

それって芸とか技とかの話に寄るけど、もっと日常レベルや人生レベルでも同じことで、ふとしたときに自分は半端モンだって焦ったり、大人になり切れないという子供らしさに恥ずかしさを覚えて、たまに取り繕うようにして常識を身に付けようとしたりもするかもしれません。

この常識を身に付けるというのは、政治に関心を持つとか献血するとか予約時間に遅れそうなら早めに連絡するとかお祝儀にいくら包むもんか知ってるとかそういう個々の細かいことじゃなくて(キリないし)、「非常識を笑う」ということなのかもしれません。

自分は常識であることに居心地の良さを覚えるというメッセージを発することで、常識的でありたいと思っているという役割を演じることで、子供らしさを切り離そうとする。なんて付け焼刃。

でももちろんそんな自分にも疑問を持っているから、あとで恥ずかしくなったり、趣味や飲みの席といった枠組みの中であえて子どもにかえったりする。こういうとこでバカになれるのも大人の証、みたいなところに落ち着いたりする。

「不安げな人たち」は本当にいるのか

なんかこういう風に考えていくとみんなそうだよなっていう気がしてきました。

「僕が仲良いと思ってる人は」って言えばあたかもマイノリティな方々というニュアンスになってしまうけど、それは僕の交友関係が乏しいからそう見えていただけであって、よくよく考えてみるとみんな少なからずこういうところあるんじゃないの、特別でもなんでもないんじゃないのと思えてくる。

じゃあ僕が最初の方に想定していた「不安げな人たち」は今いったいどこにいるんだろう。

僕を含め、多くの人は自分の立ち位置とか振る舞いとか嗜好とかそういういちいちに疑問を持っていて、不安だけど戸惑いながらも日々を過ごしているに違いない。

それを表に出すか出さないかの違いで、表に出す人の方が僕は安心して一緒にいられるし、ときには人間として奥が深いなと思ったりするんだけど、実はそういう不安をおくびにも出さない人、つまり自分に疑問を持っていなさそうに振る舞っている人、さらに言えばこういう文章の要点が掴めずイライラしてこんなところまで読まない人の方が本質的に大人なのかもしれない。

いやいやもしかしたら、本当は全然自分に疑問なんか持っていないどころか自身すら持って生きているのだけど、現代に生きる大人のマナーというか人間性の演出として、「日々悶々と悩んでいる自分」「不確かなアイデンティティを守るのに必死な自分」を作り出している人もいるかもしれない。

そっちの方が現代社会では人に親近感を持たれることが分かっていて、弱みを見せて寄り添った方が「現代」という名の、一つ角を曲がれば何が起きるか分からないお化け屋敷みたいなアトラクションを楽しむには相応しいと肌感覚で分かっていて、器用に不器用なフリをしているのかもしれない。

そう思うとみんなそんな感じに見えてくる。

お化け屋敷出てから「ほら、お化け屋敷って叫んでなんぼでしょ」とか、友達の披露宴なんかの帰りに「ああいう場ではどんだけ酔って楽しめるかが勝負だよね」とか言うの。

え、まじかよ、本気でビビってたの俺だけ?酔っ払いうざーとか思ってた俺の方が子どもだったの?みたいな裏切りで世の中満ち満ちており、どこに地雷があるかわからない。

で、これを書いている僕自身、これらの内のどの人間なのか分からない。

こわー。

なんかこわー。

実際馬鹿にされてたの自分だけなんだ、何者にもなり切れないってやっぱり恥ずかしいことなんだ、でも成り切るのも恥ずかしいし、自分は自分なんだと言っても虚しいだけだし、どうすれば良いか分からずはにかんでその場をやり過ごすしかないという不安を払拭できない。

不安が表に出ることも、あえて出すことも、隠すこともあって、場合によって使い分けてるんだけど、この境がふわふわし過ぎていて全然信頼できない。

この文章は僕が本当に思っていることを書いたものなのか、単なる文章上の実験なのかも分からない。何にせよ僕自身が信頼できない語り手になってしまっているのが怖い。

結局ぐだぐだ書いてても着地点なんて見つからなかったし、何が書きたかったのかも分からずじまいだけど、やっぱり僕は「なんかこわいよね」ってことが書きたかったんだと思うし、その目的は達成できたと思う。

そんでなんかちょっと面白かったかもなって思ってくれる人がいれば、なんか色々と「出来た」ような気がする。

自分のいる場所に疑問を持つ人たちはいつもちょっと不安げ/お化け屋敷みたいな文章(完)

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