アーティストインレジデンスについて/芸術家を集めても芸術のまちにはならないと思う

アーティストインレジデンスという言葉を聞いたことがあるでしょうか。

各地各国で行われているアートプログラムで、芸術家には一定期間地域に滞在してもらって作品作りに没頭してもらいます。

地域住人との交流や、地域の土壌や文化の観察・体験により作家の創造性には何らかの刺激を与えられることになる。

作家にとってはこのプログラムが創作のブースターとなり得るし、作家を受け入れる地域住人にとっても刺激、もしくは文化的な思考の醸造といった機会を得られる可能性がある(ざっくり言えば、お互い、何かが始まりそうな予感がする!と言ったところか)。

地域は作家にある種の投資を行うことでその活動を応援し、多くの場合作家は地域の特色と言わないまでも香を含んだ制作を行うことで地域に貢献する。

こんな取り組みをしている市町村は多いと思うけど、これ難しそうだな、単に芸術家を集めても芸術のまちにならないんじゃないか、と思いました。

「芸術のまち」なんてストレートな印象付けを行いたいわけではないかもしれないけれど、市町村としては文化的なものに力をいれ、関心を持つ地域であることくらいは印象付けたいからこんなことをするわけだよね、とは思います。

芸術というものを使って何らかの発展を望むからお金かけるんだよね、とも。ただ純粋に市町村が作家さんを応援してあげよう、足長おじさんになってあげようという性質のものではないよね、と。

じゃあ市町村がこの事業に期待するものってなんだろう、何を狙って投資を行うのだろう。それは達成する見込みのあるものなんだろうか?

こう考えていけばいくほど、難しそう。

アーティストインレジデンスってまちづくりとか地域の文化造成の機能が手頃に得られそうなプログラムだけど、そんな簡単じゃないだろうなと。

AIR_J 日本全国のアーティストインレジデンス総合データベース

なんてサイトがありました。

活発なようにも見えますが、よくみると安定的に継続して作家を受け入れられているところはそんなに多くないのかな…と思います。

旧佐藤医院というコミュニティスペースの写真。美術館の一部っぽかったので。

「文芸のまち」を作りたいと個人的に考えている僕は、アーティストインレジデンスのような事業の在り方を、自分事として考えなきゃと思います。

これはあくまで自分への戒めとして考えることなんだけど、まず、「芸術活動が盛んに行われる地域」というまちづくりをするために芸術家を集めるのは、そもそも順番が違うんじゃないだろうかという疑問が浮かびました。

もともと芸術活動を盛んに行っている人を集めてここは芸術活動が盛んですと言うのはトリックですらありません。もともと盛んに芸術活動をしている人を集めただけです。

芸術家を求める地域ではなく、芸術家求める地域でなければ、芸術のまち(芸術を育てられる地域)とは呼べないと思う。

そうなるためには、形から入るにしたって形だけでなんとかなるものではないんじゃないか。

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芸術の機能面を使いたい市町村

形から入ることも大事だろうという主張もあると思います。

もちろん、何事も形から入ることは大事だし、芸術はしばしば形だけが必要とされることもあります。

例えば、あるジュエリーショップかなにかでクラシック音楽が流れていた場合、そこに求めているのは音楽の芸術性じゃなくて優雅で高級そうな雰囲気です。

部屋に有名画家の絵画を飾る場合、期待するのは芸術性ではなくてインテリアとしての機能か、経済力の証明かもしれません。

文学を読むときだって、芸術性に触れたいというよりは教養があると思われたいという場合もある。

それが悪いとは全然思いません。

ただ、芸術家を呼んでまちづくり、という文脈で言えば、期待するのは芸術家の芸術性ではなくて芸術の機能なのでは

芸術家が滞在するという実態を利用して、地域をちょっと良い雰囲気に思わせたい、文化活動に力を入れてると思われたいというならそれで良いのですが、そういう風に集められる芸術家はあまり気分の良いものではないかもしれません。

それどころか、もっと下位の目的で芸術家が使われたりします。空き家を使ってもらえれば空き家問題も解決するし、ちょっとしたワークショップなどのイベントを開ければ人が集まるきっかけにもなる。アーティストインレジデンス事業を通して、作家に地域の特色を活かした制作をしてもらうことで、上手に地域のPRができるかもしれない。

文化交流。資源の活用。地域の賑わい。

そういった機能を目的に添えた上で扱いやすいのが、そもそも実体の乏しい「アートの力」であり、芸術家なのではないか。

地域が求めるのは芸術家の感性か技術か

芸術家の中にも色々な方がいると思います。

作品に芸術性を求める人と、機能性を求める人。

語弊があると嫌なのですが、どちらが優れているというわけではありません。

例えば芸術作品としての絵を極めようとする人もいれば、美術の力を広告などのデザインに転用する人もいるでしょう。

文章の世界だって純文学を書く人もいれば大衆文学を書く人もいるし、もっと機能性を追求するのであればインタビューライターやコピーライターなどがいます。

いずれも広義では芸術家で、クリエイターだと思いますが、機能性を求める場合、問題となるのは技術力や論理力、もしくは訴求力ではないでしょうか。

つまり、芸術に機能性を求めれば求めるほど、「社会に通用する確かな力量」が必要になってくるのです。なぜなら、求めるのが機能である以上、目的が達成できなければ価値はないからです。

また、「まちづくり」という文脈で純粋に芸術家の芸術性を求める場合、やはり半端ではいけません。

既に名のある芸術家が複数人滞在するようになれば問答無用で芸術のまちかもしれませんが、そうでない場合、極端な話、芸術家には名乗れば誰でもなれるのですから、毒にも薬にもならない状況になりそうです。

毒にも薬にもならない芸術はつまり偽薬であり、それによって得られる効果は思い込みでしょう。ちょっと乱暴な持論だけど、そう思う。

アートの力で地域が活性という効果を信じて受け入れればそれなりの効果を見出すことはできるかもしれないけれど、肝心の芸術性という成分がお留守である以上、なにも「芸術の力」じゃなくても良かったということになります。

芸術性は特に求められていないし、機能面は思い込みでカバーする。ただちょっと形としての芸術家が欲しい。

芸術家に芸術性も機能性も求めていない場合、これははっきりと、芸術家にとって居心地の悪い地域になると思います。「とりあえずいてくれたら助かるから。創作?それは好きにやってください」。

そんな投げやりな思考回路の地域はないと思いますが、結果的にそうなってしまっている地域、芸術家にそう感じさせてしまう地域は意外に多いのではないか、もしくは増えてしまうのではないかなと思います。

ちょっと休憩の写真です。旧佐藤医院書斎スペース

芸術でまちづくりをしたいなら、技術者を集めるべき?

芸術のまちをPRするために芸術家を滞在させるのであれば、芸術家ではなくて自らを技術者だと自認している人を集めるべきだと思います。そうやって計画的に、戦略的に地域をデザインし、人に見てもらうのであればお互いにとって良いと思う。

もちろん、落ち着いた制作環境と作品を有効に見せられる環境というような地域の機能を芸術家に提供するというのであれば、それは芸術家に目が向いているので好ましく見えます。

芸術家を応援しようという地域が、芸術家のために環境をデザインしていく。

老人が多い地域がバリアフリーなデザインを施していくように、芸術家にとって満たされた環境を作っていく。

もしくは、地域のデザインが先にあった上で、芸術家の力で色付けをしようというのも良いかもしれません。

例えば、以前お話しを聞かせていただいたこともあるのでひいき目もありますが、夕張の「清水沢コミュニティーゲート」というコミュニティスペースでは、やはりアーティストが創作活動できる場を作っていましたが、炭鉱の町ゆうばりという地域をまるまる博物館としてデザインするという構想のもと、文脈に沿った創作活動をしていて、面白そうだと思いました。

地域に独特の歴史を見出しているところはそういう風に芸術家と協力してるところが多いのかもしれない。

しかし、機能や結果は後からついてくると言わんばかりに、とりあえず芸術家を集めてしまっては、芸術的な探求をしたい芸術家と、機能性を求める地域の間で、利害がちぐはぐになってしまうのではないでしょうか。

自分の芸術を極めたい芸術家と、漠然と芸術のまちづくりがしたい市町村。これでは一見利害が合致するようで、微妙に視線が交わらないと僕は思う。

つまり、少々ややこしくなってしまったけれど、地域が求めるのが「芸術家」という人であるならばあくまで人のことを考えなければならないし、芸術の機能や技術を求めるのであればどんな機能や技術を求めているかをバシッと伝えなければならないと思う。

じゃないと、芸術家として持ち上げられはするものの、なんか微妙に体よく利用されてるだけのような…という印象になってしまうのではないでしょうか。

田舎とアートの微妙な関係に、ちょっと不安を感じてこんなこと考えました。

芸術家を集めても芸術のまちにはならないと思う(完)

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