手軽なストレス解消法として悪口は語られる。それはけっこう創造的だという話

悪口について考える際に、まず僕が悪口に対してどのような意見を持っているのかということを明確にしておかなければなりません。

なりませんってことはないけど、その方が良いかなって。

この記事は悪口はダメだよって記事なのか、悪口も必要なんだよって記事なのか。

つまり普段悪口ばっかり言ってる人を肯定する記事なのか、否定する記事なのか。

そういう話の到達点が最初に分からない文章はブログの記事としては不親切で離れて行く人が多いんだとか。

ということで僕の悪口に対する意見なんですが、悪口は必要だと思います。

悪口は必要悪。

いやしょっぱなから話すり替えるけど、「必要なのは悪だ」、という話から始めたいのです。

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悪は創造の始まり

例えば水戸黄門。

水戸光圀がいなくても悪代官は悪代官です。

だけど悪代官がいなければ、水戸光圀はただの旅好きなじいさんです。

権力を振りかざす場面がないからね。

だから、『水戸黄門』は悪代官がいなければ始まらないと言えます。

必要なのは悪だ。

例えば文学の世界に目を転じれば、やはり数々の物語の産みの親は悪や負の感情なのだと感じます。

戦争文学というジャンルがあったり、ハンセン病文学というジャンルがあったり、プロレタリア文学というジャンルがある。

○○文学というジャンルはなくとも、物語の中には悲しみや理不尽やトラブルが溢れていて、それをいかに解決するかというところが見どころとなっていたりする訳であります。

音楽の世界でも、ブルースというのは「ブルー」つまり憂鬱に複数形のSで「ブルース」だと聞いたことがあります。

文学にしろ音楽にしろ、やはり東日本大震災の後には様々な作品が産みだされました。

負のエネルギーは創造性を刺激するのだ、と当時頭のどこかで考えていた記憶があります。

そういや「悪口」ってジャンルはあっても「良口」ってジャンルはないですよね。

それだけでなんか分かる気がしますね。

 

前回の記事の「創造にいたる病」もこのような実感を込めてタイトルをつけました。

負の感情というのは創造の始まりである。

悪は物語の根源である。

だけどその本質は、負の感情であれ悪であれ、コイツをなんとかしたい、解決したい、取り除いてしまいたいという人々の善性があるということなのだとも思うのです。

悪代官がいてわいろの受け渡しをしていたり、若い娘が暴漢に襲われていたり、無辜の町人が言われのない罪を着せられたりする場面を見て、モヤモヤとするからこそ水戸黄門の腕が鳴るというものです。

みんなの心の中に水戸黄門はいるんやで…ということです。

悪口は質の悪い創作物

負の感情や悪感情を解決する方法は、何も正義の力で懲らしめるだけではありません。

「正義の反対は悪ではなく、もう一つの正義だ」なんて言葉があるけれど、「何かを悪いと言うのはとっても難しい」ことで、それを悪いと感じるのはすごく個人的で一面的な意見でしかない場合が多いのです。

だから、悪代官もみんなの心の中にいるのですね。

水戸黄門のような話は勧善懲悪と言ってどちらかが圧倒的に悪で、どちらかが圧倒的に善であるという前提があるものですから、もっとも分かりやすい善悪の形であります。

悪代官が悪さするのにものっぴきならない事情があるとか、子供時代の家庭環境に問題があったとか、実は脅されていてとか娘が病気でみたいな話はまったくされず、単純に悪は善に懲らしめられるという、みんなのスッキリのための話し。

だけど現実は違うでしょう。

どちらかが一方的に悪くて、どちらかが正しいなんてことは滅多にない。

だからこそ、日常で抱く負の感情や悪感情を対処するときは、懲らしめるまでしなくても、自分の善性、自分の正当性を認められれば十分な訳です。

自分が紋所を持っているのだと思えれば、スッキリする。

自分が正しいのだと分かればスッキリする。

そこで「悪口」です。

水戸黄門が単純なお話であるように、悪口も負の感情が産みの親である以上、安直で手軽な創作活動だと言えます。

はっきり言って創作物としては大変質が悪いのが悪口です。

なぜなら普遍性を著しく欠いているから(水戸黄門は単純だけど超普遍的だから誰が見ても面白い) 。

仲間内では同調してもらえるでしょう。

一緒になって悪口いってスッキリするでしょう。

実際にそんな時間は面白い。

だけど少し引いて傍から見れば、その悪口で盛り上がっている集団がひどく醜悪に見えたり、いやどっちもどっちだろって思ったり、こんなこと言う人だから嫌われてて、不利益なことが起きてんだろうななんて思ったりするのです。

反対に、例えば誰かの悪口を言って、乗ってきてくれなかったらすごくつまんなくないですか?

それは考えようによってはお前も悪いよとか相手の人の言い分も聞いてみなきゃ分からないな、とか言われたら例えそれが正論でも腹の虫が納まらないでしょう。

だから、商業的な創作物は売上の多寡がそのままの価値だなんて思わないですが、認められない一意見というのはそれだけで創作物として質が悪いと言えるのではないでしょうか。

身内にしか同調されない悪口は、そこから一歩外に出たらあなたをスッキリさせることができないかもしれない。だから質が悪い。

低質な創作物じゃ納得できない人

悪口ばっかり言っている人は小まめに創作活動に励んでいて、身内の中にさえいればその度にスッキリできるのだから、健康で良いと思います。

それで誰かに嫌われてもそのあなたを嫌った人がまた悪口言ってスッキリしてってしていけば結局誰もかれもスッキリして問題なさそうだしね。

だけど変に客観視が出来てしまう人、普遍的なものの見方が出来る人、文化的でフラットな思考がある人は大変だと思います。

あらゆる一面的な悪、もしくは正義が見えてしまって、どちらにも自分を振りぬくことができず、悪にも正義にもなりきれない。

だけど確実に負の感情や悪感情があって、それも一面的な正義だと知っていればこそ、吐きだすことができずに自分を責めてしまう。

自分の中の不の感情に尾ひれがついてスパイスもたっぷり効いて、自分はなんて醜いのだとすら観察できてしまう。

自己嫌悪に陥るけれどそれを誰かに同調してもらうこともできない。

だって誰かに同調される程振り切った自分がいないのだから。

意見や好き嫌いがないワケじゃないけど、自分の一意見というだけの小さい枠じゃ満足できないのでしょう。

だからありのままに話せばすごく長くなってしまって要領を得ずめんどくさいとか結局どうしたいのだとか言われてしまいそうでうまく話せないし、逃げ場所がないように感じるでしょう。

だから理解する時間、評価せずに観察する時間、つまり文化的な場所、何も伝わる前の、どうにかして伝えたい、もしくはどうにかして分かりたいという欲求を満たすことに時間がたっぷり使える場所が必要だと思うのですが、文明に偏り過ぎた現代ではそのような場所がなかなかないのかなと思います。

でもそういう風にたっぷり時間をかけて創作に打ち込むとすごく頭がすっきりしてストレス解消になると僕は思う。

悪口は良いと思うけど、悪口を言ってもスッキリしなかったりその後の副作用みたいな感じで罪悪感みたいなのが芽生えてしまうのだとしたら、もう一歩進んだ創作活動をすると良いのではないでしょうか。 

手軽なストレス解消法として悪口は語られる。それはけっこう創造的だという話(完)

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