小さくまとまろうとするコミュニティ作り

文明の発展が、人々の個性の顕現を推し進めると言ったような話を

文明が個性を持ってくる。マリオは日焼けサロンへ、ルイージはオーバーオールをゴミ箱へ

という記事で書きました。

単純に文明が発展すると生活が楽になる。生活や仕事など人生のあらゆることが義務的ではなく、ファッション的になる。だからそれぞれが趣味嗜好で生活に関わる物事を選ぶ割合が増えていく。だからどうしても個性が出てしまう、という流れです。

個性が叫ばれる今の時代ありきでその原因を文明の発展にこじつけているだけのような気もしますが、筋としておかしくはないと思う。

さて、仮に僕らの個性が文明の発展に伴ってはっきり前に出てくるようになるのだとすれば、この後はどうなるだろうか。

多分、小さく力強いコミュニティが増えていくだろう。

そしてやっぱりこれも現在そうなってるように見えるからこそのこじつけなのかもしれないけど、さらに「小さなコミュニティ」は洗練されていくだろうなと思う。

この記事はそういう話です。

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小さなコミュニティの存在を肯定したいばっかりに

全然注目されない小さなコミュニティで誰も知らない冒険をしよう

「小さなコミュニティ」が生まれる必然性を考えた

などで同じようなことを書いたのですが、まだ同じようなことを書きます。

思うに、僕は「小さなコミュニティ」の存在を肯定したいがばっかりにこんなことを書くのでしょう。

小さなコミュニティと聞いて一番最初に思い浮かぶのは僕の場合、「自分の町」だし、本当に身近な人々、もしくは僕と趣味嗜好や考え方が似ている人たちとのつながりのことです。

昨今は「町づくり」や「町おこし」が盛んだし、そういった自分の町を盛り上げようみたいな個人も増えた。実際、それぞれが発信力を得たことで個人の存在感が大きくなり、地域に住む人それぞれの個性=町の魅力と捉えられるようにもなった。

それはすごいことだけど、その魅力(個性)を是が非でも売りにしなければならない感覚みたいなのも芽生えて来たのだと思う。

僕はなんとなくこの辺りに反発してしまう。これじゃ結局成長や発展が正義となってしまう資本主義的な思考は変わってないんじゃないか。

資本主義的な思考が悪いとは言わない(というか言えない)けど、僕らが目指すのは本当にそこなんだろうかという違和感です。

結局持つものは持たないものより勝っており、持つものは栄え、持たないものは人知れず消えていくのだという筋書きが一緒なら、コミュニティを維持するというささやかな願望でさえ、「成長」や「発展」なくしては叶わないのではないか。僕らは小さいままでいられないのだろうか。

それってなんかおかしいような気がする、というか大きな穴があるような気がする。

んー、かつては観光名所や大きなテーマパークがあった町が強く、これからは強力な個性を持つ人がいる地域、SNSを使いこなせて、PRがうまい地域が強いというだけで、こう、社会的な視野でものを見たらやってることは変わってないんじゃないのと。それこそ成長がないような。

小学生の頃は足が速いとモテたけど、高校に入ると楽器をやってる人がモテて、社会人になると収入が多い人がモテるみたいな、そのときそのときのふんわりした全体の価値観に動かされて何かを選ぶような主体性のなさ(主体性がないことにも気づかない)が社会に残っているなら、個性と叫んでみたって虚しく響くだけじゃないか。

個性って別に社会で目立つためにある訳じゃないよなあって。

個性は常にあるし、常にない

でもこの考え方には一つ問題がある(一つじゃないかもだけど)。

それは、社会といった広い視野で見たとき、個性が損なわれるのは当然だろうというところです。

社会も一つのコミュニティとしてくくれるとすれば、そのコミュニティ内が画一的に見えるのは当然だし、資本主義経済が社会というコミュニティを形成するルールの一つなのだとしたらそこに文句を言ってもしょうがないよと。

社会はやっぱりどうしても「経済的な何か」が指標として働く領域なのだから、社会に個性が潰されるみたいな考え方は被害妄想だろう。

これは

どのコミュニティにも「個性的な人」や「変わった人」がいるワケ

で書いたんだけど、個性ってもともとあるやなしやで、単純に近くで見ると違いがよく分かって個性的に見えるし、遠目から見るとなんも違いなんか分からんというだけの話だと僕は思ってる。

自分を取り巻く人間関係を形容して、「みんな良く言えば個性的、悪く言えば社会不適合者の集まりなんだよね」とかって言うケースがあると思うけど、驚くことにこの類の自己形容は多くのコミュニティで一致するところなのです。調べて統計とったワケじゃないから印象の話だけど。

でもたぶん、自分が属するコミュニティ(バイトとかサークルとか会社)のメンツがみんな変人に見えたり、個性マジで強いと思ったりしたことはみんなあるだろうし、人がそんなことを言ってるのを聞いたこともあるでしょう。

個性なんて常にあるし、常にない。繰り返すけど、どんな人も遠目に見たらよくいる人ですし、近くで見たら自分とは違う変な人です。

距離感の問題で、今は文明の発展により人と人の距離感が縮まって、人々の個性が浮き彫りになり、それがダイレクトに拡散されるようになった(伝言ゲームみたいな劣化コピー情報が広がっていくんじゃなくて、情報の鮮度を保ったままそれぞれ直接的にという意味)からこそ、抜きんでた個人みたいな存在が生まれるのだろう。

そんな、近距離で観察した魅力を遠くの誰かに教えることができるようになったのは単純に素晴らしいことだと思うけど、でもやっぱそのせっかくの魅力を社会なんていう大雑把な領域に還元して薄めてどうすんだろうとは思う。

例えるなら、癖があるけど癖になる果物のフレッシュジュースがあって、でもちょっと飲みにくい人もいるかもしれないからリンゴやなんかと混ぜて飲みやすくしましたみたいな、万人の承認を満たすために個性を薄めるみたいな愚行が横行してると思う。

これは社会の在り方や性質がどうという問題じゃなくて、社会に対する自分の位置づけの問題。「社会に認められなければ」という強迫観念が個性を薄める愚行を招くという話。

社会に承認を求めても、実際に認めてくれる人は極一部だ。

例えばどの個人が魅力的に見えるかってやっぱ人により全然違いますよね。

ある業界ではみんな当たり前に知ってる人が、ちょっと違うところにいくと「え、誰それ笑」みたいな扱いを受けることもある。

これは昔からそうだっただろうけど、これがもっともっと極端になるということだと思います。

癖があるけど癖になる味は薄めないし混ぜない。王道は王道の味だからそこを極める、みたいな住み分けがこれからもっと極端になるだろうという話です。正確にはそうなった方が面白いんじゃないかなと僕が思うという話。

考えてみたら、どれだけ万人受けを狙おうが、社会に認められようと努力しようが、承認を得られる人数って限られています。

だって例えばCDとか本とか、どんだけ売れたって言っても100万とか200万です。ミリオンヒットとか言うくらいだから。

日本国内に限った場合だけど、トップレベルのセールスを記録したって100万や200万。

1億人以上いて、そのうちのたった100万人に認められただけで偉業です。しかも売れた=認められたとは限らないから、そのうち本当に認めた人の数で言ったらもっと減る。

何が言いたいかと言うと、社会という漠然とした領域に個性や魅力を投げかけても、それに反応してくれる人は結局圧倒的少数に収まるものなんじゃないかという話です。

それだったら、不特定多数の、敵か味方かも分からない他者の承認を求めて自分の個性に社会的な価値を与えようと考えるよりは、身近で自分のこと好きだって言ってくれるファンのために個性を磨いた方が精神衛生上良いのではないかと。

メディアは個性的な町の虚像をつくる

それで、次に出てくる問題が、どうやって個性を磨こう?というところだと思います。

しかし繰り返すけど個性っていつも”ありやなしや”な概念です。

身近な人やモノの個性は見えるけど、ちょっと遠目になると違いなんて全然分からない。

例えばまちづくりとかって文脈でも、個性を打ち出して町の魅力を発信するには(社会に求められるには)どうしたら良いか?を考えると思いますが、そんなの考えたって無駄だし、自分の町は個性的で魅力に富んでるように見えるけど、「みんな」にどう?と問いかけたところで、「どうって、まあ、町だよね。良い感じの田舎じゃない?」って感想しか抱かれない。

「でもでも個性的な町って実際にあるじゃないか、雑誌で特集されたりニュースに取り上げられたりさ」って反論もあると思うけど、雑誌だってニュースだって個性求めて現場行くんだからそりゃ見つかるものです。

近づけば分かるし、遠ざかればピンと来ないのが個性なのだから、積極的に近づこうとするヤツらには分かるのが個性で、それを知らしめるのがメディアの仕事の一つだとしたら、個性的な町の虚像を作り出すことは可能じゃないか。

「うんまあそういう屁理屈はもういいよ、何にせよある程度目立つからそのメディアとかにも取り上げられる訳で、そのための何かは考えなくちゃいけないだろう」

なるほど。

個性が取り上げられるのはメディアの個性に呼応しているかどうかだと思うし、逆にすごく無個性に見える民法のニュースやワイドショーには無個性な個性(王道なリンゴジュース的個性)が取り上げられるという話だと思うし、自分はどっち寄りなのかなと考えるのが先決だと思うけど、いずれにせよ漠然とどこかで目立ちたい、誰かに認められたいと思うならやはりなんとかして稼ぐ方法(社会にとって魅力のある何か)を考えるのが一番手っ取り早いかもしれませんね。

社会的な視野で考えたときの「価値」ってどうしても経済(ネット通販で予約殺到、観光客200%増、一年で移住者50組など)に行きつくと思います。

つまり「売りになる」ものが欲しい訳で、そのために「みんな」っていう漠然とした他者、もっとも平凡な価値観の承認を得ることを目指す構図になる。

最初から「誰にでも飲みやすいジュース」を目指して作るようなもの。ってことは当たり障りのない無難なものが結局「売り」に出る。

だから、何か社会でウケるものは無いかなと考えるのであれば、自分の魅力とか個性とかは忘れて、マーケティングとかに力を入れれば良いんじゃないかな。

小さく収まることを目指すコミュニティ

嘘だろ。社会という大雑把な場所でだって、やっぱり他とは違う個性があるから認められるはずだ。絶対どこかおかしい。

僕も自分で書いててどこかおかしい気はしてる。そしてどこがおかしいのかは分からない。

でも、これまでのまちづくりや地域おこしと言った活動には、このような側面があったことに間違いはないと思う。

個性や独特の魅力が社会で認められて、ファンが増えて、お金も儲かるという理想的な「上がり」を目指す気持ち。

それでみんなが漠然とした他者の目を気にして、大衆的な価値に自分を近づけようとするから、結果無個性になる。

これからは違う方向に突き抜けていくはずです。

ここまで書いてなんだけど、社会の承認を受けることを目指すと個性を捨てざるを得なくなるというのは、社会的な価値というものが本当にすべて経済という指標に収れんするならの話です。

今までは、言わば個性のない時代だったのではなくて、個性を計るための目盛りが極端に荒かったのだと思います。

個性が表れやすくなったということは、個性が認められやすくなったということ。

それは必ずしも経済の指標で推し量れることとは限らなくて、有益だからとか役に立つからではなく、好きだから価値があるという価値基準で支えられるコミュニティが増えると思う。

だから結局何が言いたいのかと言うと、こうだと思う。

あらゆるコミュニティ(個人)は自分らしくあること、したいことをすること、自分が満足することが大事で、それがキャラクターを守るということであり、自然な姿を追求することで洗練されたキャラクターは必ず誰かの個性に呼応し、社会の役に立ってしまうということ。

そのためにはあえて小さく収まることが大事というか、個性を潰さないための努力と言えばそんなところなんじゃないだろうか。

今までは社会に認められなければ自己満足と一笑に付されていたけれど、これからは最も自己満足できるコミュニティが最も洗練されたコミュニティになるのではないかなと思います。

小さくまとまろうとするコミュニティ作り(完)

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