あなたの話はいかにして捻じ曲がるのか。

【どうやって、ここまで来たの】鹿角アクセサリー作家の作り方

という記事は、3時間程度のインタビュー(という程しっかりしたものではないけど)をさせてもらった上で書きました。

筆者――○○○○?

▲▲さん――○○○○○○○○○○○○○。

筆者――○○○○?

みたいな対談形式の記事は書きたくなかったので、話を聞いた上で、できるだけ僕が僕の口で誰かに伝聞するような感じで書くことにしました。だから多分に僕の意見とか、僕から見た印象のようなものが練り込まれています。

だけど聞いた話を後で誰かに伝えたときに起こり勝ちな微妙なニュアンスの違いとか、話の前後が違うゆえの印象の違いとか、そういうことを回避したかったので、メモを取るのではなくずっとビデオカメラ回して、それを聞きながら書きました。

でも、それでもやっぱり僕が話を理解していないところがあって、公開後、一旦非公開にして書き直した部分があります。気を付けよう、ちゃんと話を聞こうと思っても話が捻じ曲がることはある。

なんでそんなことが起きるんだろう?

どうしてこんなに人の話を聞くのは難しいんだろう?

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人は聞きたいことしか聞かない

身に染みて思ったのは、人はつくづく自分が聞きたいことしか聞いていないんだなということです。

100%の聞き手になろうとしても、絶対に自分というフィルターを通して、自分の頭で処理する過程で、(自分にとって)必要な部分と、不必要な部分を無意識に選別して、編集、いや圧縮して理解してしまう。

自動的にそんなことができるのだからなんて優秀な頭なんだって言えなくもないんだけど、なんでもかんでも圧縮すれば良いという訳でもないし、圧縮法がトンチンカンなら解凍したときに使い物にならないということがある。

その傾向は歳を取れば取るほど顕著なんじゃないかって正直思ってる。失礼でも偏見でもないと思う。歳を取れば取るほど、人の話を聞くのは難しくなるという実感が自分にもある。

例えば気付けばお昼ご飯をパンにたっぷりのジャムだけで済まそうとする祖母に、そんな食事だと糖尿になるぞと話すことがあります(うちは晩御飯以外セルフ)。

すると、「診療所で血糖値は高くないと言われた」と言うので、血糖値は食事を摂るたびに変化するんだよと伝える。

血糖値は上がり下がりするもんだってこと。血糖値は高いことが問題なのではなくて、下がりにくいことが問題なのだということ。だから朝ごはん食べてない日に血糖値検査して正常値でもなんの意味もないこと。

甘いものだけじゃなくて、お米やパンやイモなんかも糖質が多いから食べ過ぎるといけないこと。そもそもなんで糖尿病は怖いのか、などなどを丁寧に伝えても、祖母は「要するになんでもほどほどにってことだね」という結論に持っていきます。

え、ちゃんと伝わったかなって心配になるし、多分途中から全然聞いてないんだと思います。

「ごちゃごちゃうるさいこと言ってるけどまあ要するに食べ過ぎちゃダメなんでしょ」とか、「ばあちゃんの友達は甘いものが好きでお菓子をいつもたくさん食べてたから糖尿になった(私はそこまでお菓子食べてないから大丈夫という意味)」とか、身近な結論に話を持っていく。

こういうことが大なり小なりどんなときにも起るし、気を付けようと思っても「要するにこう」的な処理をしてしまう。

話す方だって完璧ではない

当たり前のことだけど、突発的な会話において話す方も完璧ではありません。

普通伝えたいことを一点に絞るような、プレゼンテーションな話し方もしくは論文的な話し方はしないし、言いたいことが一つであるとは限らない。

この度お伝えしたいことは○○は○○だという話で、その根拠を一言で言えば○○。例えば○○も、○○も、○○も同じように○○だから、○○と○○の間には一定の関連性が認められ…なんて話し方を普段することはないのです。

じゃあどういう風に話をするかと言うと、……どういう風に話をするんだろう。

僕が人に何か聞かれたとして、例えば「今の仕事を選んだ理由はなんですか?」みたいなことを聞かれたとしたらまずなんて答えるか。

そう考えるときっとストーリーを話すみたいになってしまう。こうだからです、って一言で言えるケースはすごく少なくて、最初はこうで、そのうちこうなって、だんだんこうなったみたいに話す。

言われてみると自分でもよく分からないから、話しながらどうしてこうなったんだろう?と考えることになる。

その際にも、過去を振り返って関係あることとないことの取捨選択をして口に出す訳だから、そこで一旦編集が加えられている。

女子会が先にあって、会話はあとづけ

ストーリー的になってしまうということは、どちらかと言えば小説のような語り口になる。

実際小説を読むときと、会話を楽しむときの感覚って似ていると思う。

だって「要するになに」みたいな、目的を持った質問と回答という単純な形ではなくて、その会話の一つひとつ、やりとりや掛け合いの一つひとつを楽しんで、何の話って訳じゃないけど楽しかったみたいなファジーな感覚が生まれるもんだと思うから。

読んでいる間に立ち上がる何かというか、読むこと自体が経験で、何かを得るために読むというケースは少ないのが小説だと思う。

普段の会話だって、具体的な「何か(情報)」をやり取りして、得られたものを評価して良い会話だった悪い会話だったと考えることは少なく、好きな人と話してればどんな内容の乏しい会話でも楽しいし、関心のない人の話はためになってもそんなに面白くない。

むしろその「会話という経験」のためにストーリーがあるようなことってあると思う。

例えば「女子会しよう」みたいなことってよくあると思うけど、それは「女子会」という場が先にあって、それにふさわしい会話が後付けされるものではないでしょうか。

一緒にいてなんやかんや話すことが楽しい。その口実というかつじつま合わせというか、繋ぎの役割を持つのが会話であり、ストーリーである。

捻じ曲げられるのではなくて、無理やりまっすぐにされる

なんの話をしてるんだか。

でも実際の会話はこんな風に、会話の軸に沿って展開されるとは限らず、ちょっと思いつきとか、ちょっと連想されることがポンポン入り乱れることが多いはず。

もちろんこんな記事は、目的を持って、検索ワードを打ち込んでやってくる人が圧倒的に多いブログのような媒体には向いていない書き方だけど、僕らの実際の会話はこんな風に、頻繁にずれたり曲がったりする。

この道程を後から一本の道に正そうとすると、すごく大変な思いがする。

結果的に、どういう道にしようかという枠組みを先に決めて、それに合う内容を拾ってくっつけるという作業をすることになる。多分これがテーマを決めるということなんだろう。

よって僕たちの会話は「捻じ曲げられる」のではなくて、「無理やりまっすぐにされる」と言った方が正しいように思う。

そもそも、言葉自体が一本道にならざるを得ない運命を持っています。

文字は順番に並べるしかなくて、順番に読むしかない。

口から出す言葉も同様で、4次元で展開される現実を一本の道に並べるのは容易なことではない。

話すときにも、聞くときにも、それを誰かに伝えるときにも、全ての段階で、言葉という融通の利かない入れ物に収めるという編集もしくは圧縮と言った方法が取られる訳だから、僕らの話はめちゃくちゃな速度で劣化する。

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