小説は読んでいる時間の中にしか存在しない

自分で考える創作論

「小説は“読んでいる時間の中”にしか存在しない」

僕が小説を書こうと思うようになったきっかけになった本の一つ、『書きあぐねている人のための小説入門』の中でこのようなトピックが語られていて、最初これを読んだとき目から鱗だったのですが、最近はよくこのことを思い返します。

これだけでもだいたい意味は分かると思うけれど、もう少し詳しく内容に触れた方が、小説を書く人にも読む人にも府に落ちるのではないかと思うので少し長いけれどこのトピックの本文を引用させてもらいます。

読み終わった後に、「これこれこういう人がいて、こういうことが起きて、最後にこうなった」という風に筋をまとめられることが小説(小説を読むこと)だと思っている人が多いが、それは完全に間違いで、小説というのは読んでいる時間の中にしかない。読みながらいろいろなことを感じたり、思い出したりするものが小説であって、感じたり思い出したりするものは、その作品に書かれていることから離れたものを含む。つまり、読み手の実人生のいろいろなところと響き合うのが小説で、そのために作者は細部に力を注ぐ。こういう小説のイメージは、具体的な技術論を覚えることよりもぜったいに価値を持つ。

『書きあぐねている人のための小説入門』は繰り返し読んでいて、ややもするとこの本の中で書かれていることをまるで自分で考えたかのように書いたり言ってしまったりすることもあるんだけど、特に今引用した個所のところは深く納得していて、今回のこの記事も、書く直前まで、「小説は読んでいる時間の中にしかない」って我が物顔?で書くところでした。

 

 

『書きあぐねている人のための小説入門』は何度も読んだけど、保坂一志の小説を読んだことがない

 

 

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「小説は読んでいる時間の中にしかない」の実感

ずっと前からこのことは一応頭にあったのだけど、最近になって我が物顔で「小説は読んでいる時間の中にしかない」ってことを書こうと思ったのは、このことを自分の頭で考えられるようになったからだと思います。

この違い、学生時代とかにみなさん少なからず経験したことがあると思います。

例えば算数とかで、問題の解き方も分かるし、実際に解けるし、正解を導けるけど、それは単純に教わった通りにこなしているだけで深く理解はしてない状態が続く。

だけどある瞬間から、深く「分かった」という気持ちになって、腹に落ちる感覚があって、実感を伴って理解できる感覚を味わうことがある。今までは問題を解いてただけで、分かってたわけじゃなかったんだ、と思う。

こうなると人に教えることもできるようになって、相手がよく分からない様子だったら言い方やアプローチを変えて、相手の腑に落ちるイメージを発掘することができそうな気がする、みたいな。

「小説は読んでいる時間の中にしかない」ということに関して、僕はようやく、自分の頭で考えることができるようになったという感覚が芽生えたので、この記事を書くことにしたのです。

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音楽は聴いている時間の中にしかないを経由する

「小説は読んでいる時間の中にしかない」という感覚って、音楽を聴いている感じと言えいかえれば分かりやすいのではないかなと思います。

多分音楽なら、「音楽は聴いている時間の中にしかない」で、わりと誰でも腑に落ちると思うのです。

音楽は、例えばCDとか楽譜とか記憶とかそういう形で存在はするけど、やっぱり本当の意味では「聴いているその瞬間」にしか、私たちの中に音楽として存在することはないのではないでしょうか。

先ほど引用した文章の後半を改めて見て欲しい。

読みながらいろいろなことを感じたり、思い出したりするものが小説であって、感じたり思い出したりするものは、その作品に書かれていることから離れたものを含む。つまり、読み手の実人生のいろいろなところと響き合うのが小説で、そのために作者は細部に力を注ぐ。

「読みながら」を「聞きながら」、「小説」を「音楽」、「読み手」を「聴き手」に替えて読んで欲しいんですけど、そうすると、確かに音楽ってそういうものだって納得できる人は多いんじゃないかと思います。

言われてみれば当たり前のようだけど、これが納得できれば、例えば「好きな音楽を何度も聞いちゃう理由」も分かるような気がしませんか。

そして、あくまでここでは「小説」の話がしたいわけだけど、僕ら果たして小説と(読む際も書く際も)再読を前提として向き合っているだろうか、細部に心を払っているだろうかと考えると、微妙な気がしてこないでしょうか。

そういう実感を得るために、少々まわりくどいようですが、「小説は読んでいる時間にしか存在しない」をわざわざ音楽に置き換えてみたのです。

細部が大事、細部が大事、細部が大事

引用した文章のもっとも重要なところは、前後を説明していないので分からないはずだけど、「細部が大事」ということです。

もう少し音楽の例えを続けます。

音楽も、ただ内容を知れば良いというものではないでしょう。誰が歌ってて、歌詞はこうで、コード進行はこうでといくら情報を固められても、音楽を聴いたことにはならない。

聴きながら込み上げてくる感情や、光景がある。思い出す人がいる。その瞬間に音楽が音楽なりえる。

ただ、そういうものを想起するトリガーとなるものは、「これ」と簡単に指し示せるものではないと思います。

この曲の、ここ!この部分!ここが最高に良いのよ!みたいに言いたくなることはあると思うけど、そこには恐ろしいほどに「細部」が隠れてる。

歌詞が良いと言われればそうだし、曲調が急に変わる感じでゾクっとすると言われればそうだし、歌手の表情が良いのかもしれないし、声の掠れがという場合もあろうし、実はその前の小節の余韻が残ってるせいで一瞬の空白が生まれていて、そこで宇宙を覗くような壮大さを感じているのかもしれない。

結局全部。ここ!と言いつつ、細部の連なりを解かないままに、僕らはその美しさを感じることになる。

歌詞、声、リズム、トーンと分ければいろいろな要素で音楽はできていると思うけど、そういうものの重なりを聞いているうちに、自然に生まれる何かがあって、音楽と呼応する形で自分の中に何かが立ち上がる。

小説でもそれは同じだということです。

細部を形作り切実さ、偏執

引用した文章より前の段落では「小説では、細部こそが全体を決めていくのだ」と語られています。更にその後を引用すれば

一人ひとりの孤独な時間の中で、ゆっくり目で読むことによって、文字として書かれた複雑な空間的叙述・時間的叙述が読み手の心の中に何重もの層として積み上げられたり、内側に折り畳まれたりするプロセスそのものが小説という表現形態なのだ。

と語られています。

このような印象が、小説にあっただろうか。読む立場として、書く立場として、細部に気を払い、ストーリーを進めること以外の重層的な仕掛けに気が回るだろうか僕は。

仕掛けと言えばテクニックっぽいけれど、この調和した層を作るのは「切実さ」だと僕は思う。

そうじゃなきゃならないと信じる気持ちというか、偏執的な愛情というか、表現がしっくり来ない気持ち悪さをいかに解消しようとするか、みたいなもの。

言い方は様々だろうけれど、そういう、座り心地の良いようにクッションの位置を直すみたいな人生における細部を、小説を書く際、読む際に大事にできるだろうか。

ストーリーを指して小説とは言わない!と言い切るのにもちょっと抵抗はあるけれど、小説は要するにお話しで、ストーリーなんだと思っていれば、そういう些細なところが覆い隠されてしまうという気がする。

それは小説にとっての障害だと思う。

 

小説は読んでいる時間の中にしか存在しない(完)

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