宇宙の拡がりと文明の拡がり/宇宙と頭の中は似てるという話。剣淵の夜、補足譚。

剣淵の夜①で、絵本の里剣淵の誕生秘話をお話してくれた高橋さんという方が仰っていた話の中で、不意に「宇宙」という言葉が出てきた部分がありました。

絵本の里を作るに至った経緯とか、絵本で町おこしをする意味みたいなことをお話してくれると思っていた僕らにとってはまさに不意打ち。

一瞬「え?」って思うんだけど、よく考えてみれば「文化」「宇宙」「脳」っていうのは繋がっているのですよ、というのが今回のお話。

高橋さんのお話なかなか壮大で上手にまとめられなくて、剣淵の夜①みたいになったけど、この記事はその補足ということで併せて読んでいただけると嬉しいです。

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文明に傾いた時代

高橋さん曰く、人間は文明以前の歴史の方が長く、その時代に培ったものを求めるように出来ている。落ち着くように出来ているし、深く心に刻むように出来ている、らしいです。

文明以前の時代に培ったものがまさに「文化」と呼ばれるものであって、人類がその文化を大事にするのは「宇宙の法則」のようなものだ。

若干どころかだいぶ僕の解釈が入っているから正確にこう仰った訳ではないし、僕がねつ造した話になってしまうかもしれません笑

でもけっこうおもしろい話だと思う。

まず繰り返し「文化」っていうのは何かという話しをしたいのだけど、文化というのは「どうにかして伝えようとする営み、あの手この手を使って理解してもらうための営みすべて」だと僕は思います。

もちろん、同じくらいの必死さで受け取ろうとする意思や理解しようとする意思があって、それも「文化」だと思う。

ただその状況に応じて「発信者」と「受信者」がいるということ。

現代は文明に傾いてしまっている。

何故かと言うと、自分の意思を伝えたり、人の意思を汲んだりという文化的な営みに対して必死さがなくなっているから。

「文明」という言葉も繰り返し説明させてもらうけど、それは「明らかな部分」です。皆の目に見える部分。共通認識。

ここで今はネットとか携帯とかで繋がる時代だもんねって話になると途端にチープになります。

それは伝達法の変化に言及しているに過ぎず、文明の上に立って物事を見ていることに変わりはありません。

文明に傾いているというのはまさにこの文明しか見えないという状況であって、目に見える部分の奥の方だったり底の方に目を凝らすことをしなくなったということ。

光が当たる場所ばかりに目が行って、それ以外の場所があることに気付かない状態。

闇に恐怖を感じないこと。それが文明に傾いている状態だと僕は思います。

名付けの過程

ストレスフルな文章を書いているような気がします。

はやく宇宙と脳の話しをしなければ。

文化と脳と宇宙はとても似ている、という話しをするために、まず「名付けの過程」を考えてみましょう。

どういうことか。

僕たちは物事を理解するために必ず名前をつけなくてはなりません。

世界は言葉で出来ていると言われることがあります。

名前の知らないものを人は認知できず、認知できないということはその人にとってそれは存在しないものとなる。

例えば「雨」。

普通誰にだって雨は見えますよね。肌で感じることもできる。
だからある。

存在するじゃないか。

確かに。しかし存在することと認知することは違います。

日本語には雨を表現する言葉が非常に多いと言います。

霧雨、粉糠雨、夕立、長雨、氷雨、時雨、五月雨などなど、数えだしたら数百にのぼるとか。

しかし全て雨です。

例えばまだあまり言葉を知らない子供にとってみれば、どの雨に降られたところで雨は雨。

どんな雨が降っていたって、「お外雨降ってる?」と聞けば「降ってる」と答える。

つまりその子にとって、「夕立」か「五月雨」かという区別はないのです。

でもそれって不便ですよね?

「夕立」だと言ってくれれば、「あーじゃあ用事あったけど、ちょっと待つか」って判断ができるのに、雨だけでは情報が足りません。

「粉糠雨」だと言ってくれれば、「じゃあさっと用事済ませてこようかな」って判断になるかも。

これで何が言いたいかというと、人は事象の一つ一つに区別をつけて、つまり名前を付けて、それを認知するものだということです。

そして名前が付けられたものというのは「共通認識」となる。

共通認識とは何か。

文明です。

「文として明らかになったもの」です。

言葉と宇宙

しかし、言葉の拡がりというのはまさに宇宙的です。

一つに名前を付けると、必ず「それ以外」が生まれる。

「赤」が分かった途端、「赤以外」が分からなくなる。

誕生以来ずっと膨張を続けているという宇宙のように、言葉の領域は4次元的に拡大していきます。

人は目に見えるもの以外の「概念」と呼ばれるにも名前を付けました。

「明日」とか「昨日」とかっていうのも概念です。

我々は「明日」という言葉を作ることで「明日」というものに共通の認識を持つことができたから、「明日」の予定が立てられるようになったのです。

言葉の上では、どれだけ時間が進んでも、どんな場所ででも待ち合わせをすることができます。

文明が発達した我々にとって、ほとんどの不便はなくなりました。
ほとんどのことが分かった!という気分です。

少なくとも身の回りのものには全て光が当たって、不明なものなんてないように見えます。

あったとしてもそれは自分に無関係なものであって、わざわざ光を当てる必要性も感じない。

地球のこと、太陽のこと、太陽系のこと、銀河系のこと。後は夜空に見えるいくつかの際立った星のことを知っていれば全く問題ない。

とても文明的な時代です。

しかし言葉も宇宙も、一つを定めればそれ以外が生まれるのですからその膨張は縦横ななめ全方位に広がっていくものです。

人が諦めようがどうしようが、認知しようがしまいが関係なく、広がっていくものなのです。

文明的な時代だからこそ気付かないけれども、文字や言葉がまだ発達していなかった時代、人々はきっと分かったことの何倍もの不明に目を凝らして生きてきたのではないでしょうか。

文明に頼りすぎな人々

不明に目を凝らしたとき、人は文化的になります。

どうにかして文にしよう、つまりどうにかして言葉にしようと思う。

どうにかして理解しよう、そしてどうにかして伝えようと思う。

人間にとってはそれが普通なんだよ!そっちのが自然だから、その時代の方が長かったから落ち着くようにできてるんだよ!

というのが高橋さんの言っていた、「宇宙の法則」なのではないかと僕は思います。

だけど文明的な今の時代、文化的な思考を持つ人にも我々は手近なものを当てはめてしまいます。

自分でも未知の何かを表現したくて、どうにかして伝えようと思っても、「要するにこういうことでしょ?」って。

「もっとずっと奥の方に知らない星があるみたいなんだ!どんな性質かも、形も色も分からないけどさ、きっと地球より大きくて、軽そうで・・・」

「ああ、木星みたいな感じでしょ?木星だよそれ木星。分かるわ―それ最初見たとき俺もびびったわー。」

「いや、ちがう…木星じゃないのは分かる。木星はだって、木星じゃん。その奥なんだって。奥って言うか、底って言うか…。」

「ふーん。知らねえなあ。てかお前けっこうロマンチストなんだな!笑」

その星が何物で、どんなところかなんてどうでも良いのです。だって分かんないし。

ただ、未知とか、疑問とか、そういうものに対する不安とか、恐怖とか希望とか、伝わって欲しいと思っていることが伝わらない。

それは人間にとってとても辛いことではないでしょうか。

剣淵の夜①で書いたことをここで書けば分かりやすいかもしれません。

皆さんは忙しい時間がないって人の話を適当に聞いていないでしょうか。

とにかく結論を早く出そうとする傾向にはないでしょうか。

要するにこうでしょって口先だけの理解をしていないでしょうか。

他人を理解しようとすることに凄まじい労力を感じてはいないでしょうか。

もしくは他人のことを簡単に理解できると思っていないでしょうか。

そんな世知辛い世の中を作ったのは、きっと人類が文明の利器に頼りすぎたからです。

脳の認知スタイルと膨張する宇宙の様子がすごく似ているということを書きたかったのです。

そしてその構造は否応なく、明らかな部分より不明な部分の方が大きくなるように出来ている。その領域は常に1対8くらいの割合の開きがある。

文明的な、忙しい世の中で、どうにかして伝えよう、どうにかして理解しようとする、文化的な営みの時間を作るのは難しいかもしれません。

だけどその営みは人の脳にとっても心にとっても自然なことだし、発展にはかかせない要素だ。

だからこそ、文化的な土台が必要なのではないか。

時間がたっぷりあって、人の話しを聞いたり自分の話しを聞いたりする落ち着ける場所が。

まだ形のないものを必死で伝えようとする人に疑問を抱かない場所が。

絵本の里にはそんな可能性があるのではないか。

僕は朝日町を、物語が生まれる町にしたいと思っています。でもそれは正確ではなくて、そうか、自分は文化的な土台が欲しいと思っていたのだ、ということに気付けました。

剣淵の夜、勉強になりました!

宇宙の拡がりと文明の拡がり/宇宙と頭の中は似ているという話。剣淵の夜、補足譚。(完)

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