心を込めた文章は読まれる、には理屈はあるか。

自分で考える創作論

前回、前々回と「全力で書こうぜ」的なことを書いたのですが、なんというか精神論すぎるなという感じがしてモヤモヤ。精神論はあまり好きじゃないんだろう僕は。

野球やってた頃、「寒い」とか弱音を吐いた時点で負けてるみたいなことを監督にが言ってて、なんかすごく嫌な気分になったのを思い出します。

だけど、精神論って文章を書く上ではけっこう馬鹿にできないもんなんじゃないかとも思いました。

というのも、ブログはどの記事が一日に何回くらい読まれているかが分かるのですが、上位に並ぶ記事はどれも心を込めて書いたなという印象が強いもの。

こんなの書いたっけ?みたいなのが読まれることは稀で、あーこれ書いた書いたって実感があるものばかりが上位になっている。

頭使って戦略的に書いたっていうより、これ頑張って書いたなーとか、熱くなっちゃったなあみたいな記事がコツコツと長く読まれる記事になってる。

じゃあ熱い心で叫べ!みたいなことってすごく大事なんじゃないか?

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とはいえ読まれる記事は理屈で説明できるはずだ

読まれるブログ記事=検索される記事と言ってしまって過言ではないののだから、読まれる記事はグーグルのアルゴリズムにうまいこと合致して論理的に上位表示された理由があるに違いない。

僕が頑張って書いたかとか、心を込めて書いたかなんて全然関係ないんだろうけど、蓋を開けてみると心を込めて書いたものがよく読まれている。

こりゃどういうことだ、という気分になる。

理屈で説明できるはずの事柄に、精神が入り込んでいる。

グーグルはヒトの心が持つ熱さまで評価できるようになっているのか?

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単純接触効果的な感じで愛着が湧いてるだけかもしれない

もしかしたら、ダッシュボードで毎日読まれる記事のタイトルを見ることになるから単純に記憶が定着しているだけで、心を込めて書いたっていうのが錯覚なのかもしれない。

毎日目につくタイトルで、何人に読まれてるってチェックできるから、その積み重ねで後から愛着が湧いてるのかもしれない。

だからやっぱり精神論とか、気持ちは伝わるとか、真心込めるとか、そういうことに対して疑う余地はまだまだあるんだけど、でも、文章は心を込めて書いた方が良いよなって普通に素直に思う。

言葉だし。思いがあって訴えがあって言葉になるのだし。心ありきなのは間違いないのだし。

心ばかりでも頭ばかりでもダメそうなこと

基本的に毎日ブログは書こうと思ってます。

毎日更新するぞ!みたいに意気込んでるわけじゃないし体調悪かったら普通にサボるけど、日課としてブログはある。

ほとんどの記事に心を込めていないというわけではないです。

でもムラがある。毎日書くつもりで書いてたら、毎日毎日ありったけの精神力を込めるなんてことはできない。文章を書くってMP使うから。

ときに思いがけずすごくムキになって書いてしまうことがある。結果的にそういう記事が読まれてる。いつも心を込めて書くべきである。でも毎日は無理だ。

毎日全力で真心を込めているわけじゃないことを不誠実とも思わないです。

自分が書きたいことを書くことに違いはないし、書くことは考えることで、届けるばかりが能じゃない。

小さなことでも些細なことでも、絡まった紐をほどくようにちまちまと、手先でいじってやっと解ける謎みたいなのがあって、そういうものに挑むには心ばかりでも頭ばかりでもダメなんだろうと思う。

ちまちま書いて、考えて、たまに熱くなって、そういう一連が個人的には青春で、打ち込むってことなんだよな。

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