感動できない大人たち。

昔に比べれば、感動する機会は増えたような気がします。

生きてれば自然に知識が増えるからモノの見る目が変わったり、理解できることが増えて楽しくなることも増える。

例えば昔はお城とか寺社仏閣なんか見ても何とも思わなかったけど、だんだん歳を取って、どうやったらこんなの作れるんだろう!みたいな驚きの感情が湧くようになってきた。

でも一方で、感動ってこんなんだっけ?という気持ちもある。こんな風に要領良く、分別臭くこなすのが感動だっけ?

感動ってもっと訳分からなくて、そのときは全く言葉に出来なかったり何かを感じているという自覚がなかったりするものじゃなかったか。もっとモヤモヤとした感覚ではなかったか。

そういう意味では僕は感動できなくなってる。

感動する要領は覚えたかもしれないし、これはこんな風に感動するんだっていう作法みたいなものは覚えたかもしれないけど、本当に心が激しく揺さぶられたり、反対に心が空っぽになるようなあの感覚を得る機会は減っているような気がする。

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感動に関わる直近の会話

先日函館に行って来たんだけど、彼女も一緒だったから夜、函館山の夜景を見に行きました。もう何度目かの夜景なので見慣れてると言えば見慣れてるんだけど、せっかく函館来たんだし、行かないのもなんかもったいないくらいの感じで。

彼女のKさんはこう言いました。

「夜景は綺麗だけど15才のとき初めてみたときみたいに感動はしないよねやっぱ残念なことに」

僕らの初函館山の夜景は中学時代の修学旅行でした(Kさんとは中学別々だけど)。

僕は言いました。

「むしろ15歳のとき何とも思わなかったな。今はこんな風に街の灯かりで陸の形が見えることに感動してる」

でもよく考えてみれば、15歳当時何とも思わなかったのは本当ですが(ほぼ記憶にない)、そのときよりも感動してるかと聞かれれば嘘かもしれない。感動の作法を身に付けはしたかもしれないけど、本当に心が動いているかと言えばそうでもない。

あーはいはいこれね。これはこういう風に眺めると調子良いよね、みたいな。

ちなみに今は函館の夜景をディスってるんじゃなくて、何に関しても最近の僕はこのような傾向があるということを説明したいのです。

でも自分の首を絞めるようだけど、一応夜景をスマホで撮って、「この夜景の画像、何万人のケータイに入ってるんだろうなー」って言ったな僕。感動するとか口では言ってる癖に全然冷めてますよね。でも多分みんなそんな感じだと思うんだよな。

感動にまつわる会話

別の話なんだけど、こないだばあちゃんと話してたとき。

うちのばあちゃんは満月が好きで、今日満月だよって教えてあげるといつもどれどれって感じで窓ごしに眺めます。

「それにしても80年以上生きてても月って見飽きないもん?」って聞くと、「そういえばそうだね。月なんて80年前から変わらないだろうにね」って。

14夜の月

満月

ベランダから撮った写真。上が十四夜、下が十五夜。

自然って見飽きない、ともばあちゃん言ってた。庭を取り換えようなんて考えたことないし、って。

確かに。自然は見飽きない。僕も月とか、月に限らず星は好きだし、夜に散歩の習慣があるんだけど、星を眺めに出てるようなもの。

このとき、僕は確かに感動していると思う。

でも僕が今考えたいのはこんなことじゃない。これは感動する、これは感動しないって考えても大した結論には行きつかない気がするのです。

「人によって何が琴線に触れるかは違うよね」って話になっておしまいだろうなと思います。

僕が今考えたいのは、まだ自分でもよく分かってないんだけど、「一体いつから僕らは感動を求めるようになるのか」みたいなことかもしれません。もしくは、「要領良く感動することを良しとするようになったのはいつからか」とか。

予定通りの感動で一旦は満足する僕ら

大人になって、自分の人生の舵を取るようになると、僕らは予約制の感動を求めるようになるのではないかと思います。

富士山で初日の出が見たい、ウユニ塩湖行きたい、グランドキャニオンで夕日見たい、イエローナイフでオーロラ見たい。

月だって見飽きないんだから絶景と呼ばれるところに行ってその景色を見たらそりゃ感動するだろう。でも予定調和感があるとやっぱりどこか冷めてしまう。

予定通り感動して、予定通り価値観変えちゃったりして、結果的に良い経験かもしれないけど、結果がありふれてる以上そういう経験そのものがありふれてるし、まあ普通だよねみたいな。

この手続き的な感動を寄せ集めて、自分の感性を磨いた気になる傾向が僕に限らず大人にはあると思う。

函館山の夜景だって、頂上に行けばどんな景色が見られるのかは知ってて行きます。何があるか分からないなんてハラハラな状況じゃない。あそこにはカップルや家族が溢れていて、みんな同じルートを使って、同じような写真撮って、同じような良い思い出作って帰っていく。

繰り返すけど函館山がどうこう言ってる訳じゃありません。どこにおいてもそうだよねって話なのです。オーロラだってなんだってツアーがあったりするし、観光地としてその土地の財産になっている。

いわゆる絶景というものは消費されつくしていて、消費されるものだからこそ手続き的すぎる。

消費者意識が働くと、僕らは与えられることしか考えなくなると思います。払った対価(お金や時間)に見合ったものを受け取ることしか考えない。というより期待する結果ありきでモノを見るようになる(グランドキャニオンを見るときには自分のちっぽけさを思い知るという予定が含まれているみたいな)。

そういうことはたいてい予想を越えない。だってあらかじめ見合う価値は払ってて、それに納得して、期待通りのものを受け取りに行くわけだから。

消費と創造の壁

感動にはなんか不意に後頭部を殴打されるような衝撃というか、何が起こったかも分からないような困惑感みたいなのが必要だと思います。

感動はこちらから手土産持って挨拶に行くような相手ではなく、急に襲ってくる通り魔みたいなものなのではないでしょうか。(感動って実際良いものだけとは限らないですよね)

こういう感覚は多くの人に分かってもらえると思う。

こういう感覚(感動の輪郭というようなもの)が分かっていて、でも大人になると子どものときみたいになんか分からんけどあちこち連れてかれるようなことも少ないし、知識も経験も豊富だから自分の脳みそを越える出来事がなかなかない。

最近感動してないなーって思っちゃうし、感動できることないかなって探しちゃう。でこれは感動できそうだぞってことがあったらお金なり労力なりを支払って、それが贅沢で楽しいという感覚はあるけどはっきり言って予定通りのものしか見てないので本当の意味で感動はしてない。

こうして僕らは感動乞食になっていく。どこかに感動は落ちてないかと練り歩くようになる。そして半径1キロ以内の人がしていないような経験を求めるようになる。

感動には消費と創造の壁がある、と思う。

その壁は蜃気楼みたいなもので、追いかけても追いかけても逃げていくものなのかもしれません。

どうすれば感動できるだろう、これなら感動できるかもしれないという風に思ってしまったが最後、心の準備をしてしまったが最後、感動に出会うことはなくなってしまうのに、追いかけずにいられない。負のスパイラルみたいですよね。負わなければ向こうからやってくるのに、追ってしまう。

全く無防備なままで、覚悟も期待もせず、今を生きていくしかないみたいな話なのでしょうか。結局僕はそういう風な話がしたいだけなのかな。

今、ここにしか価値はない。/今のために今やるを死ぬまでやる

感動できない大人たち。(完)

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