選択の先の先/都合の良い解釈で気持ちが楽になるなら

自分で選ぶことができるって本当に大事なことだと思います。

以前いただいたコメントの中で、「何もない町にないもの」の一つとして「選ぶ機会」を挙げていただいたことがあります。

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選択に関する記事けっこう書いてるんだな

例えば「職業」や「学校」、「病院」、「買い物するお店」といったような、人生や生活に密接に関わっているものでも、田舎ではあまり選べない。

だから、多くの人が豊富な選択肢のある都会を選択する。

なぜ田舎から人がいなくなるのか。」という記事では、これとはちょっと違った視点で人が都会を選択する理由を書きました。

「選択」に関する記事もいくつか。

女性を意識する上で忘れたくない選択の幅/店内はくまなく歩きましょう」という記事の中では、「清潔であること」「安全であること」「選択できること」の三つが必要らしいよって話を。

進路選択/易きにつくか難きにつくかなら、易きにつきたい。」では必ずしも困難な道を選ぶことはないんじゃないかって話を。

自分で見つけることの大切さ/大事なものは見つかるまで探したい」では、自分である程度苦労して選ぶこと、自分の力で見つけて選んだものが大切になっていくんじゃないかって話をしました。

読み直してみるとなかなか読みにくいので、整理的な意味も込めて今回の記事です。

この記事では、選択ってどのレベルまで必要なんだろう?というお話をしたいと思います。

人生は選択の連続。
どこまで細分化しても選択の連続

人生って選択の連続だから、選べるってどこまで?って考えだしたらキリがありません。

生まれるか生まれないか、なんてことは考えられませんが、学校とか職業とか割と人生の中で大きな選択はあります。

買い物をするとき、どのスーパーにするかとか、どのコンビニにするかという選択があります。

遠いけど安いスーパー、値段は普通だけど近いスーパー。

デザートを買うならこのコンビニ、弁当を買うならこのコンビニなんて、みんな結構用途に合わせて選んでるんじゃないでしょうか。

ちなみに朝日町にはコンビニがありませんから、コンビニ行こうと思ったらお隣の上士別にあるセイコーマート一択です。(23時まで営業)

23時を越えてコンビニに用があれば、車で20分から30分かけたところにある士別市街まで行かなくてはなりません。ここには各コンビニが揃っています。

よって行かないという選択になります。大抵。都会にいた頃と違って今は夜中にそんなコンビニに用ないし。

こういう風に考えていくと、選択はどんどん細かなものになっていきます。

デザートはどれにする?和菓子か、ケーキか、菓子パンか、アイスか。

飲み物は何にする?

ああそう言えば牛乳が切れてたからついでに買っていこう。
どの銘柄にしよう。いつものやつ?低脂肪もある。ビンもある。

 自分で選んだから文句はないでしょってのは乱暴じゃないか

なんでも選べれば選べる程良いのでしょう。
だからと言って携帯電話の料金プランみたいにややこしいのは嫌ですけど。

どこまで選択するかってどんどん細かくもしていけるけど、どんどん大きくもできます。

いつかの記事で、仕事とか住むところとかって大事なんだから、納得の行くまで探して、自分で見つけれるようになれば良いみたいなこと書いたと思います。

だって、仮にその道が思っていたのと違うとか、不本意な道だったとき、でも自分で選んだんだからって納得できるでしょ…ってホントか?

納得できるか?

と思ったのがこの記事で考えるきっかけでした。

よーく考えてみると、今自分の歩んでいる道がどうやら思ってたのと違う、なんか面白くないぞ、ちょっと辛いぞってときは、選ぶ余地がなかった、と思えた方が救われるんじゃないかと思ったのです。

しょうがないこうするしかなかったんだ。

成り行きでこうなった。

この道しか思いつかなかった。

運命だったとしか言いようがない。

こうやって、選択の責任を何かに転嫁することで諦めがついて楽になることの方が多いんじゃないでしょうか。

仮に人生をやり直せたとしても、結局同じ道を選ぶことになってたんだよなっていう諦めが、激しい後悔から救い出してくれることもあるかもしれない。

そう言えば、ゲームで選択を誤るとやり直すの超めんどくさい(余談ですが)

人生は一回きりで、時間を戻すこともできないから、戻ってやり直すってことはできません。

セーブポイントからやり直しって出来ない(できたらいいのに)。

だから道は慎重に選ぶけど、いつもうまく行くとは限りません。

余談だけど、でもゲームみたいにやり直せないからこそ前向きになれることもあったりしますよね。

ゲームって間違った道は明らかに間違ってるからかえって悔しいんです。

うわあそこで右に行けば良かったのかーって間違った箇所がスパンって分かるから、間違った道を進む時間の無駄さ加減が際立ってしょうがない。

やりなおせるから良いって言うか、やり直せるからめんどくさいんです。

だって明らかに間違ってる道なんだもん。やり直すしかないんだもん。

人生ってやりなおしができないし、どこから間違ってたのかも良く分からないことが多いから、このまま行くしかないって言う諦めがつくんですよね。

前向きな方ならここからどう向上していくかって考えて、後ろ向きな方ならもうこっからは極力努力しないって現状維持って方針になるのかも。

まあみんな前向きになったり後ろ向きになったりですよね。

自分で選択するってことは、「あのときのあの選択が間違っていた」っていう部分がすごく浮彫になることだと思うんです。

あそこで右だったかー、ちくしょう間違えた、やり直したい、時間無駄にしたーって気持ちがすごく強くなる。

その点、あのときはああするしかなかったんだ、実質強制イベントだったんだって方が現象は一緒でも気持ちは楽でしょう。

選ぶ余地がなかったって方が間違っても諦めがつく、前向きになることもある

例えば、朝日町から旭川市まで行く道は大きく39号線と40号線を通る道があります。

39号線の方が距離は短いし信号もない峠道。

40号線は街中を通るから交通量も多いし信号もあるし距離も長い。

急いで旭川まで行かなきゃならないってとき、どっちの道を選ぶか。

普通なら39号線の方が早く着きます。

よし急いでるし、ここは39号線やっ!って進んでみると路面状況は悪いわ事故ってて片道交互通行になってるわで全然間に合わない。

うわーこんなことなら40号線で来れば良かったよ。となる。

40号線に進んでいたらどうなっていたか。

40号線はけっこう道が混んでる。旭川には12時のJRに乗れる時間に着かなきゃならない。

ダメだ間に合いそうにない。よし高速乗ろっと。

で、結果間に合う。

39号線に進んでいた道は完全に間違いだったということになります。

でも同じように39号線を選んで同じ結果になっていたとしても、事前に40号線という選択肢が塞がれていたらどうでしょう。

その日は帰省ラッシュだかで上も下も超渋滞してて、事故も多発してて、明らかに40号線を通っていたのでは間に合わないってyahooニュースとかでやってる。

なんかもう40号線通らない方が良いって書いてある。

それで39号線を選んだんだけど、まあこっちも普通に間に合わない。

結果は一緒だけど、こっちの方が全然諦めが着きますよね。

自分で選んだんじゃないし、こうするしかなかったし、まあそういう運命だったってことで、次のJRの時間調べましょ、遅れるって連絡いれましょ、しょうがないし許してくれるでしょ。

自分で決めた道でも、選択の責任をなすりつける準備をしておいたらどうだろう

だから、自分が選んだ道でも、ちょっと他のところに責任をなすりつけられるようにしておいた方が良いと思うのです。

例えば何かの縁があって朝日町に来ると決めたとして、仮に思ってたのと全然違うということになったときには、僕のせいにするとか、そのとき背中を押してくれた友達のせいにするとか、そういう準備をしておくのも良いと思うのです。

だってあのときは完全にそういう流れだったんだもん!みたいなことでも言って、責任転嫁でもなんでも出来ればよいと思います。

多少子供っぽいかもしれませんけど、選択を何に委ねたのかって部分まで選択できてそれで気持ちが楽になるなら良いじゃないですか。

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