文明が個性を持ってくる。マリオは日焼けサロンへ、ルイージはオーバーオールをゴミ箱へ

大人の条件/終わりなき民族的で複雑な通過儀礼

では、大人の条件ってなんなんだろうな、そもそも大人なんているのかなとかを考えました。

結局、年齢以外では明確に大人とはこれだと定義できないと思うんだけど、仮に社会で働く人々が全員「大人」だとします。

ここで言う大人とは、小さい頃大人ってこういうもんだと思ってた大人。漠然と、何がってわけじゃないけど立派で頼りになって頭の良い、理想像としてのお父さんやお母さんのような大人。もしくは社会に求められるような、社会の役に立つ大人。

そう仮定すると、「でも待って、もしそういう人々を大人と呼ぶのなら、社会にはとっくに仕事がなくなってるはずだ」と思ったのでそういう話をしますね。

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「大人」が社会を作るなら、仕事が増え続けるわけがないじゃないか

たいていの仕事は、言ってみればトラブルや問題の解決ですよね。

ではどうしてトラブルや問題が世の中にたくさんあるのかと言うと、それだけ僕たち人間が揃いも揃って未熟でポンコツだからです。

忘れる、怠ける、面倒くさがる、怖がる、理解できない、思うように体が動かない。

あとちょっと分かりにくいかもしれないけど、お腹が空くとか、褒められないと機嫌が悪くなるとか、人より優位に立ちたいとか、モテたいとか、そういう欲に関わることは全て問題になり得る。ポンコツの要素です。

これを解消し続けるのが仕事なのだから、理想的な大人、人の完成形であり、子どもとは違って立派な大人が社会を作っているはずである以上、仕事は減り続けなければならない。

でも実際はそうなってない。仕事は減るどころか増え続けている。

ということは、実際の大人は未熟さやポンコツさが渦巻く社会を汗水たらして作っていることになる。

僕らが頑張れば頑張るほど世の中はろくでもなくなる、と言えば言い過ぎかもだけど、仕事の数だけポンコツがある、と言っても言い過ぎかも。

「あるべき大人像」を僕らは持っているような

社会は人の弱さで回っている。

弱さとは欲望とか自我とかそういうものです。

モテたいから髪を切る、カッコイイ自分が好きだから髪を切る。だから美容師さんがいる。

人は弱さで動くという話であれば、例えばけなされたり馬鹿にされたりしたら人は怒ります。我々が理想とする大人なら柳に風という体で受け流すのかもしれないけど、実際はそうじゃない。

表に出すかどうかの問題で、内心では口ぎたなく罵ってたり、後で誰かに話してたり、別の方法で報復したりする。

でも理想的な大人像に照らし合わせれば、理不尽な暴言にはムキになって立ち向かわないのがあるべき姿であり、そう思うから社会的には何ともない風を装う訳ですよね。マジで何も感じなかったら「ここは大人になろう」ともわざわざ思わないのです。

つまり、社会で求められる大人像というものは確実に存在するしその姿は確かに理想かもしれないけど、その実僕たちを動かすのは大人像とはかけ離れた自我や欲である、ということです。

また、そういう弱さがあるからこそ、人は「理想的であろう」とする。

悲しみを優しさに

弱さを原動力にするのが人間です。

ピーチ姫を助けなくちゃいけないからマリオはあんなに頑張る訳で、ピーチ姫がクッパにさらわれても聖人のように「いなくなってしまったものは仕方ありません」とか、「物事は絶えず流転するものです、縁があればまた会うこともあるでしょう」とか言ってたら話にならない。

くっそーピーチ取られた!って思うからマリオは走る。

欲と自我は弱さだけど、同時に強さでもある。

なるほど。では欲も自我も持たないロボットに社会を任せることに不安になる気持ちも、ここに原因がありそうです。

僕らには無意識に、未熟者でポンコツだらけの人間だからこそここまで発展したんだという自覚があるのでしょう。

そこんとこをロボットに任せたら、世の中は回らなくなると何となく嫌な予感がするのかもしれません。

でもそれ本当だろうか?自分たちのこと信じなすぎ、もとい信用しすぎじゃないだろうか。

ちょっと脱線、大人の条件。

ちょっと脱線します。前回考えた社会で求められる「大人の条件」にかなり肉薄できそうな気がする。

「守るべきものがあるから強くなれる」と言えば何かの主人公のようですが、世の中は確かにそういう類の正義で溢れているのかもしれない。

というかこういう言い方が弱さを強さに変える方便であると言えなくもない。

ピーチ姫を守りたいと言えば強さかもしれないけど、ちょっと皮を剥けばクッパに取られたくないという独占欲かも。

プライドとか信念と言えば聞こえはいいけどただのわがままと言えばわがままな訳で、社会に求められる力というのはだから、弱さをオブラートに包んで強さや正義にすり替える能力なのかもしれない

僕たちが当たり前に暮らしている社会は加速する欲望で溢れていて、その分だけ弱さを正義に置き換える術や方便に溢れるという論理が正しいのだとしたら、今現実に世の中が虚飾にまみれている状況にも納得がいく。

もしくは正義は自分にあると信じた人の無遠慮なバッシングの数々も。

まったくあらゆる欲望を満たしたい人間が、だけどシンプルに欲張りさんな自分が恥ずかしく、見栄を張って取り繕うとして嘘になる。ほんと誰も悪気なんてないんだよな。

世の中にロボットは溢れるに決まってる

さて続きです。

ロボットの台頭に一抹の不安を抱く気持ちもあるかもしれないけれど、怠けたくて、ロボットがあれば任せたくなっちゃうのもまた人間です。

面倒くさいという感情はやたら強い。少なくとも僕は非常に面倒くさがりで、一般的に面倒くさがりは優秀な人が多いと言いますが僕は例外というか優秀じゃない方の面倒くさがり。ただ面倒くさがるだけで、じゃあこうすれば早いじゃんとか要領よくこなすのではなく、誰かやってくんねえかなーって考えてるだけ。

僕みたいな人間はロボット大歓迎です。そして多分だけど僕みたいなヤツらばっかなんだろうなとも思う。

優秀というのは並みより優れてるから優秀なんですよね。だから面倒くさがりという並中の並みの人間性が優秀さの尺度になるわけがないですし、確かに面倒という感情から生まれたものは多いかもだけど、普通はただ面倒くさがりなだけですよね。

だからロボットの社会台頭に何となく反発心や恐怖心を抱いたとしても、ロボットは世の中に溢れるにきまってる。

守るべきものがなくなったマリオたちは

さてロボットが社会で働くようになりました。

初期コストはかかったものの、人件費が大幅に削られたのでランニングコストを考えるとやはり合理的で、なおかつロボットは優秀なので元を取るのは簡単でした。単純に人の3倍働けるのです。

僕らには守るべきものがなくなりました。家族養わなきゃとか嫁に楽させてやりたいとかお父さんの介護しなきゃとかいった諸々がなくなりました。

頑張んなくたってそれくらいのことはできるからです。社会人らしい責任とかも、ないわけじゃないけど今よりもっと基本的な「約束は守る」とか、「嘘をつかない」とかになる。

ピーチがクッパにさらわれても自動迎撃システムでクッパのみが攻撃され、運転手ロボットによる無料送迎バスが各ピーチを速やかに回収するのでマリオは追っかけなくてもよくなったようなものです。

この時点において、マリオが体を鍛えることが実用的な意味ではなく趣味になりました。

マリオがぽっちゃりしてるよりムキムキの方がカッコイイと思うから鍛えるのです。せっかくピーチとイチャイチャする時間が増えたんだから、マリオが思う、ピーチ姫に似合うカッコイイ男性になろうと努力しているのです。ついでに日焼けサロンにも行きました。

こうして能力や志向がことごとくファッションになります。

いっぽうルイージは、知的な方がカッコイイと思うのであの緑のオーバーオールを脱ぎ、主張は少なくシンプルだがどことなくセンスが良い服を着るようになりました。

見た目だけじゃなく、知的な自分のイメージに合うよう、言語も学ぼうと決めました。しかも実用英語とかじゃなくてラテン語に挑戦するという酔狂さです。でもルイージはそんな自分がけっこう好きで満足してました。

文明は人々を文化的にする

「個性」とか「自分らしく働く」とか「好きを仕事にする」が現在のトレンドだと思いますが、だからそれは文明が発展し、生きるのが楽になったゆえの自然な流れなのかもしれません。

そんなんで生きていける訳ねーだろという気持ちは確かにまだまだあるけど、そうやって生きていく未来を肯定してみても良いんじゃないか。

文明は多様性を産み、なおかつ人々を文化的にします。

例えば、自動言語翻訳システムが人体でもスマホでも良いけど内臓できるようになり、誰でもごくなめらかに異国の人と会話できるようになったとする。

他の言語が分からないという不便さがゼロになる。これで人間がダメになるかと言えばそうではなくて、多分もっと深い話がしたいと思うようになるのです。好きな人ができたりしたら特に。

言葉は通じるけど根本的に歴史背景が違う。宗教が違う。言葉の意味は分かるけど、どうしてそういう言い方をしたのかが分からない。ああ言語を知るだけじゃダメなんだ。むしろ私は私のことを完全に話すための母国語だって足りてないじゃないかって気付く。

こうなればもうその人の考えは哲学や文学といったレベルであり、文明の発展が人を文化的にするというのはこういうことだろうと思う。

そしてこの文明の発展に伴う変化は、人類の進歩にもなると思う。相互理解に繋がり、精神的にもグローバルになりえるからです。

だからさっき、自分たちを信じなすぎ、信用しすぎだと書いたのは、僕らの欲望ってそんな簡単に枯渇しないし、それほど欲に対して控え目でもないということ。

社会は弱さに向き合うことで発展するようです。

面倒くさいと言って逃げてるだけじゃなく、面倒臭さと向き合える人が何かを作るように。

今社会にある弱さは、例えば「存在価値を失いたくないという感情」なのかもしれない。「今までの苦労をなかったことにしたくない」「馬鹿にされたくない」「惨めな気持ちになりたくない」という感情かも。

でも存在価値なんて簡単になくならないと僕は思うし、過去を理解し尊重するのもまた文化的な精神の仕事だと思う。

だから僕らが目指すべきは社会が漠然と求める、条件が不確かな「大人」より、はっきりと目の前にある「こうありたい自分」なのかなと。

文明が個性を持ってくる。マリオは日焼けサロンへ、ルイージはオーバーオールをゴミ箱へ(完)

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