文章と色彩/「書く」作業は世界の編集

フォトショみたいな本格的なソフトを使わなくても、最近のスマホではかなり自由自在に画像の編集ができます。物足りなくても無料のアプリでも入れればかなり自由自在だと思う。

一度写真を編集しだすと、どの写真もちょっとは編集しないと気が済まなくなって、写真を取れば編集作業をするまでがセットみたいになる。

写真を編集しながらよく思います。

この編集後の写真って、「現実よりキレイな姿」なんだろうか、それとも、「自分が見た現実に忠実な姿」なんだろうか。

分かりにくいですかね。

後でもう少し説明するけど、文章を書くときも同じ問いをすることがあって、何かを文字にして残す作業ってのは最初から最後まで「編集作業」なんじゃないかって思う。

このとき、編集前と編集後では、どちらがよりリアルなんだろう。

スポンサーリンク
スポンサードリンク

編集前の画像はなんだか物足りない

例えば何気ない田園風景の写真を撮るとします。

撮ったものを後で見ると、なんだか物足りない感じがする。

空はもうちょっと青くって雲が浮き出ている風にしたいし、田園はもっと青々と風が通り過ぎる筋みたいな影が濃く見えるようにしたい、とか思う。

そう思ったらちょっと編集ボタンを押して、彩度とか明度とかをいじればかなり理想に近づく。

こうして出来上がった理想の画って、「現実よりキレイな画像」なんだろうか、それとも、「自分が見た現実に忠実な画像」なんだろうか。

このとき写真は現実に色付けをした「幻想」なのか、忠実な「現実」なのかって部分で、どっちなんだろう?って思う。

写実に印象を加えなければリアルにならない

多分普通に考えたら、綺麗な写真って「幻想」だと思う。実際の景色はそれほどキレイでも劇的でもないけど、ちょっと編集することで絵画っぽくなって、綺麗な景色を作り出すことができる。

でも、「この景色キレイだなー」って思ったときの自分は、紛れもなくその景色に絵画的で劇的な何かを見ているのだと思うのです。

空は本当に突き抜けるような真っ青に見えたし、雲は浮き上がって見えた。風が作った筋道が黒々とした影に見えて、空間すべてに躍動感があったのだと思います。

だけど、写真に撮るとそういう「印象」がすべて省略されて、忠実であることは分かるんだけど自分が見てた景色、自分がキレイだなーって思った景色とはずいぶん違う。

だから編集しないと自分が見た景色に近づかなくて、いざ編集すると確かに嘘っぽいんだけど、こう見えたんだから仕方ない、このくらい綺麗に見えたのは本当なんだって思う。

写真を通して映し出された世界と、自分が編集を加えた世界とでは、どちらがよりリアルなんだろう。

ここから文章の話。文章で自分のリアリティを伝えるには?

よく、良い文章を指して「リアリティがある」とかって言うと思うけど、「写真を通して映し出された世界と、自分が編集を加えた世界とでは、どちらがよりリアルなんだろう?」という問題を解決しなければ、「リアリティがある文章」には絶対に近づけないんじゃないだろうか。

あ、今さらだけどここで話してるのはどちらかと言えば文芸よりの、小説とかエッセイに書く文章のことです。

「情報を伝える」というよりは、「世界を切り取って見せる」という、写真的な書き方をするときの文章の話。

ここでとりあえず核心に近いことを言っておくと、写真と文章の似ているところは、感覚が制限されるところだと思う。

実際ある風景の中にいるときは、景色(視覚)だけでなく、寒さ(触覚)とか、匂い(嗅覚)とか、風の音(聴覚)も感じている。

寒さを感じたら空を青く突き抜けているように感じるかもしれないし、風の音が強ければ風に煽られる穂先とか、雲の流れが大きく感じるかもしれない。

だから視覚だけに頼ることになってしまった写真は超物足りなくて、耳で感じたこととか肌で感じた印象を足したくなるから編集が必要になる。

出来上がったものは視覚的には大げさなんだけど、感覚的にはかなり現実に忠実。

「編集前と編集後はどちらがよりリアルなんだろう?」という問題は、だから、どっちもそれなりにリアルで、どっちもそんなにリアルじゃないって話になりそう。

じゃあリアリティのある文章を書くためにはどうしたらよいか。自分が感じた通りに人に感じてもらうためにはどんな工夫ができるだろう。

想像力という器官を使って書く

文章は写真よりもっと視覚に頼らなきゃならない。しかも実際に見えているのは「文字」だけだから、読む人の「想像力」という器官も頼りにしなければならない。

じゃあかなり思い切った編集作業が必要で、そのためにはこちらも想像力で書かなきゃいけないんじゃないか。

なんか当たり前っぽい話になってきましたよね。でも考えなきゃ。

例えば「寒い」ことを伝えようとしたときに「寒い」って書いたらダメだと思う。

それは「寒いことを伝える文章」にはなるけど、「寒い状況」に付属するその後の行動とか、心境を想起・連想させるためには物足りないし、何より読んでる方に微かな寒気すら感じさせないようでは、ただシャッターを切っただけ、その点を選んで書く意味が限りなくゼロになってしまう。

「寒さ」を印象レベルまで還元する

僕が「寒いこと」を伝えようとしたら、「寒い」と書くのは芸がないなくらいまでは考えると思うけど、やっぱり文字を通した視覚に頼ることからはなかなか抜けられないと思う。

例えば、「息が白い」とか「地を這う冷気が横っ腹に浸み込んで」とか「無意識につま先をこすり合わせていた」とか。凝った文章を書こうとしている分かえって芸がない感じになってますよね。

多分文章が上手な人は文章のトーンとか色彩の部分をいじって寒さを伝えるんだと思います。

「寒い」ということを伝えたいなら、「寒い」を一度印象レベルまでに還元する。

「青(視覚)」とか「薄い密度(触覚)」とか「高い音(聴覚)」とか「濃いインクの匂い(嗅覚)」とか、一度五感全部を使って、寒い状況を僕はどうとらえるだろう、どういう感覚を使って寒さを得ているだろうと考える。

次にもっと五感とは違った感性の部分を考える。

「陰性」とか「憂鬱」とか「背後」とか「不調」とか。

そしてそういう寒さを構成するレシピを使って、現実を編集する。

そして作った寒い文章

彼の趣味を聞いた。

玄関の郵便受けの前に椅子を持ってきて、ジッと新聞が差し込まれるのを待つらしい。椅子の上で体育座りみたいな恰好をして、足のつま先をこすり合わせながら、そのときを待つ。

どうせ寝ていられないのだから、と彼は言い訳がましく言った。

新鮮なインクの匂いのする新聞が、「夜」という形の風船を針で刺すようにして、郵便受けの小さな窓に差し入れられるのをじっと待つそうだ。

頭が見えたらすかさずこちら側から思いきり引き込むと彼は手ぶりを交えて言った。

配達員がまだ新聞を持っているときを見計らって、パリパリの紙面が指をちゃんと擦りあげるように注意をはらって、その動作だけで「存在」を知られるように、息をつめて待つらしい。

小窓が閉まる音と配達音の逃げ足が玄関に響くと、彼は声を殺して笑うそうだ。

そうして朝が始まると彼は言った。

うわただちょっと「悪趣味な人」になってしまった。

言ってたのはこういう寒さじゃないよね。

もっと清々しい寒さを書きたかったのにね。

スベッたみたいな意味で寒くなっちゃってるんじゃないのかこれ。

あ、でもそういう「寒さ」もあるな。

「無表情」「決まりのわるさ」「白ける」「足に力が入らない」

あとは、あとは。

文章と色彩/「書く」作業は世界の編集(完)

スポンサーリンク
スポンサードリンク