僕らの暮らすウォーキング・デッドな社会で、心を守るために作りたい「コミュニティ」について。

ウォーキング・デッドから学ぶ「生きる手段としてのスモールコミュニティ論」

っていう記事がnoteにあったんですけど、これすっごい面白かったです。

というか、僕も最近ウォーキング・デッド見始めて、かつ「コミュニティ」ってワードが絡んでたので、誰一人目もくれない小さな田舎で「コミュニティ」について考えている僕にとってツボの記事だった。

そうなんだよね、ゾンビ(ウォーキング・デッド内ではウォーカーと呼ばれる)が普通にはびこる世の中みたいに、「危機感」とか「敵」とか「脅威」が目の前にあると、人間は身近な人と固まって、協力しあうしかなくなるんだよね。

現代社会ではゾンビみたいに目に見える脅威はないかもしれないけれど、十分、一歩外に出れば闘争に次ぐ闘争の世界。知略・謀略渦巻くサバイバルな世界なんですよね。

だからウォーカーは「我々の命を脅かす存在」もしくは「明らかに見える危機感」というものを表す単純化された記号であると言ってしまっても良い訳で、その中でのコミュニティ形成とはつまり現代社会の我々が取るべきサバイバル手段でもあると。

面白い。

ここでは上記にリンクした記事に便乗する形になってしまいますが、さらに僕なりの視点で、「危機的状況でのコミュニティ形成、特に精神面の」ということについて考えてみたいと思います。

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ゾンビになっちゃった方が楽なんじゃない?意志を持たないという快楽

ゾンビモノってあんまり僕詳しくないけど、ゾンビ化が広がっていくのがこういう作品の怖いとこですよね。

ウォーキング・デッドでも例外ではなくウォーカーに噛まれるとその人間もウォーカーになっちゃうってところが何とも言えない。

これめちゃくちゃ嫌だし、今まで一緒に暮らしてた家族とか仲間がウォーカーになっちゃうときの切なさというか怖さは身に迫るものがある(コミュニティを守るために殺さなきゃいけないっていうところまで含めて)。

で、僕なりに面白いのは、あれだけうじゃうじゃウォーカーが居て、そりゃ怖いんだけど、身も心も疲れ果てたら、「あれ、あいつらの方が楽なんじゃね?」って思う瞬間があるんじゃないかな…って考えてしまうところです。

なんで頑張って生きてる方は必死こいて怖い思いとか悲しい思い危ない思いとかしてそれでもコソコソ逃げてなきゃいけないのに、あいつらが食欲だけ全開にして自由きままにに生きてるんだよ!そんなのおかしいだろ!って思ってしまうんじゃないかって。

別に良いじゃん、こんな荒廃した夢も希望もないような世界でわざわざハードモードで生きなくたって、あいつら(ウォーカー)の仲間になって流れに乗る感じでさ、ちょっとした流行りだと思って、サクッと噛まれて、イージーに生きればいいじゃんって。

いやしかしそんなの愚問で、ウォーカーって生きてる人から見れば「生きてるように見えない」んですよね。死の定義は難しいけど、少なくとも彼らは死者。しかも死してなお生き続けなきゃならないっていう、これはなんの罰だ神よ!っていう憐れな害悪。

生きながら死んでしまう世界と戦え

それこそ、その様は現代人に当てはめられなくもないです。

生きてるんだけど死んでるみたい、なんて感覚は誰でも自分に抱いたことがあるのではないでしょうか。

自分の意志じゃなくて、何者かに生かされてる感覚。自分にはなんの目的もなく、なんの志もなく、意味も感じず、ただ何者かの命令や事の成り行きとか常識とかそういうのに従って、かつ日々貪欲に生きるという、消費するだけの命。

いやそれも開き直ってみれば楽なんですよね。

わざわざ自分から辛い道選ばなくたって、危険なことしなくたって、みんな大抵「ただ生きてるだけ」なんだから、毎日起きたり寝たりして、食いたいもん食って、それでオーケーじゃんって。

だけどそれって生きてるって言うの?って考える瞬間が、多分みんなあると思う。ただ漫然と生きるのはやだなあ、何かしら生きる意味みたいなのが欲しいなあ、その他大勢じゃなくて、「自分」になりたいなあと。

生き残るって言う意味は、僕たちの場合単純に肉体があるというだけではなく、精神の問題でもあるのです。

だからこそ、「目に見える危機感」と肉体的にも精神的にも戦い続けるウォーキング・デッドの登場人物たちのあれこれには胸が熱くなるんだなと。

心を守るためのサバイバルが始まっている

もっとも現代において、肉体を守るっていうのはそれほど難しくないとは思います。

だって食われるかもしれないから安心して眠れないなんて状況はないでしょさすがに。

夜は誰かが見張りしててくれないと、とかって状況も、とりあえずないと思います。

だから、「精神のサバイバル」の方が、我々に切迫した課題なのだと思う。

自分はいかに生きるか。

ウォーキング・デッドから学ぶ「生きる手段としてのスモールコミュニティ論」

に書いてあったことだけど、まさに「どう生きたいか」という問題。

何を中心にして繋がり、相互扶助のための生き方をつくっていくのかといえば、それは「価値観」だろうと思っています。

と書いてあったことに同意で、かつ大事なことは、現代の多くの人(とくに若者)が同じことを考えてるってこと。

コミュニティ形成の場において、多分僕たちは相互扶助と言っても、それほど「生きることそのもの」に対する危機感は抱けていないのではないでしょうか。

むしろ、「平和ボケ」と言われるくらいの僕たちだからこそ、「生きたい」と切望するのではなく「こう生きたい」という段階のことを強く考えてしまう。

そこがつまり精神の領域で、「食が満たされれば本を読みたくなる」僕らは、肉体の充足の次には精神の充足を求めるもので、精神を満たす場や土台や繋がりが欲しいと思っている。

だから僕らは「価値観」でつながるべきで、それが現代に必要なコミュニティの中心になるんじゃないかなという話。

あなたの心を後回しにする世間のウォーカー

で、忘れちゃいけないのが、「これはサバイバルなんだ」というところです。

それは、「外の世界は油断すると精神が殺されてしまう危険な場所なんだぜ?」という認識を持つということ。

「好きを仕事にする」とか「趣味を中心に生きる働き方」とかって流れもサバイバル意識の表れなのかもしれないけど、もしかしたらそういう生き方は憧れ以上に眉を顰められたり、嘲笑されたりするケースも多いのではと思う。

「んーやっぱりパーソナルな領域の好きなこととかは『社会』の一員としてやることやって、それからだよ」って意見がまだ大半なんじゃないでしょうか。

「好きなことはけっこうだけど、そうやって生きていける人は一握りなんだよ」とか、「君、働くって言うのはね…」っていう説教がはびこってる、気がする。

「好きなことをして生きる」って、仕事になるとかならないとか稼ぐとか稼がないとかとはまた別の次元で、なんだかんだ許されてないんじゃないかって。

自分が自分であるために最も必要な、「僕はこれが好きで、これに囲まれ、こういう風に生きたいんだ」っていう精神の領域が、世の中では「いやそういうのあとあと!好きなことは嫌なこと頑張ってやった人だけができるんだよ?知らないの?」みたいな感じで襲ってくる。

一歩外に出たらウォーカーだらけだぞ!

お前もああなるぞ!って感じの危機感。

そういうものを持ってるんだって考えれば、僕がこんな小さな田舎町で、基本的に一日中部屋に引きこもり、読んだり書いたりしてるこの環境が、堅牢な要塞のように思えてきた。

引きこもれる「魂の要塞」を作る

さて「精神のサバイバル」という話に戻って終わるんだけど、サバイバルという感覚を持てば、一人よりは複数人の仲間がいた方が安心っていうのは自然な到達点ですよね。

「外は危ないぞ、自分の身は自分で守るぞ」という危険な状況だからこそ、「固まれるだけ固まれ、お互いに助け合え」って感じなのです。

そのとき、何を助けるかというとお互いの精神、つまり価値観であって、自然、価値観を中心にしたコミュニティという形になる。

一人で引きこもってたら世間様に負けて結局自分の好きなようになんて生きられないけど、20人で引きこもって助け合えば、普通に生きるのはもちろん、(一応)好きなことがみんな一緒だったり理解があったりだから、生き延びるのが容易になるって例えれば分かりやすいかも。

引きこもるって言ってもその実態はどうでもよくて、そこはあくまでも「魂の要塞」ね。

僕個人としては精神の問題だから遠く離れた人同士のコミュニティ形成でも良いよねって思ってるんだけどでも物理的に固まることもできたら肉体の生存率も上がるから、どちらにも適応できればベストだなって思います。

いずれにせよ、まずは「価値観」でつながるのが先だなって思う。心がこもってないから社会保障制度は崩壊するんだろうし。

僕らの暮らすウォーキング・デッドな社会で、心を守るために作りたい「コミュニティ」について。(完)

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