単純な人間関係が複雑なコミュニティを創る/形に文脈を添えてデザインするコミュニティ作りの考え方

単純なことの繰り返しが、複雑さや多様性を形作っていく。

創造社会論第三回目から得た、創造的なコミュニティを創るヒントをメモしていきたいと思います。

第三回目は松川昌平さんとの対談授業。

松川先生がどんな人でどんな研究をしているかは、もちろん創造社会論の講義を見てもらっても構わないんだけど、プレゼンテーションの映像があったのでこちらを見た方が分かりやすいと思います。

「植物を育てるように建築を育てる」という聞くだに面白そうな研究です。

じゃあこのまんま、「植物を育てるようにコミュニティを育てる」も可能なんじゃないか?というのがこの記事のテーマ。

スポンサーリンク
スポンサードリンク

植物の多様性とか複雑性はどのように出来上がるか

植物にはたくさんの種類や形があり、とても複雑そうに見えるけれど、実は単純なもので、初めは一本だったものが枝分かれし、その枝分かれしたものから更に分化し、ということを繰り返しているだけなんだそうです。

Lシステムと呼ばれるアルゴリズムで説明ができるらしいのですが、ちょっと難しいことは置いておいて、複雑で多用に見える形も、単純なことの繰り返しで出来ているのだとか。

でも、複雑さもよくよく見たら単純なことの繰り返しだってことは分かるけど、多様性とか個体差とかってのはどうして生じるの?と言えば、それぞれに生存戦略が存在し、その場に適した進化・成長を遂げていくものだからだそう。

講義中に話されていた内容ですが、植物で考えると分かりやすい。

例えば少しひん曲がって成長する木があるけれど、それは太陽光をより長く広範囲に浴びるための必然的な成長の結果で、南側に太陽光を遮るものがあればどうにかして光を浴びようと北の方へ傾いたりする。

同じように、全ての植物がそれぞれ生存するために必要な成長を遂げ、ある種は高く高く伸びるし、ある種は小さく留まって小さなエネルギーコストで生きられるように工夫している。

ここまでは講義で話されていたことまんまです。自分で見た方が多分理解しやすいですよ。

つまり、それぞれがそこでそうして生きているのには理由とか必然性とか合理的な事情があるということなんですね。

余談だけどこのブログの派生ブログである「ゴトーを追いながら」というブログでは、その辺のことを勉強していこうと思っております。難しくて苦戦してるけど。自然にある物語を読むという感じでしょうか。

コミュニティにも必然性が必要だ

さて本題です。

単純なことの繰り返しが、複雑さや多様性を作っていくというのは、例えば人間関係、コミュニティでも全く同じことが言えると思います。

単純と言えばまずそれぞれ一人一人が、自分との対話をするという構造を持っている。

決断したり、選択したり、誰もがあらゆることを自分と相談して暮らしているはずです。

そんな単純な一人一人が、他者と出会い、二人という最小の人間関係を作る。

基本的にはこの繰り返しだけど、その場と状況に応じて、恋人同士になったりして、そこに第三者が加わると三角関係になったりして複雑になっていく。

人ってそれぞれは個体差はそれほど大きくないけれど、やっぱり生き方とか置かれる環境には大きな違いがありますよね。

それぞれが自分に適した方法で人間関係を育んでいき、快適な生存戦略を行使している。

で、ここが重要なポイントだと思うのです。

生存するためには、自分に適した方法で、快適な方法で、成長・進化していかなくてはならない。

松の木はハウスの中では窮屈だし、森の奥深くに咲くヒマワリはちょっと想像できない(想像はできるけど多分ないんじゃないの)。

人間関係やコミュニティも同じだと思う。

人間関係は選べないところもあるから目をつぶるとしても、その与えられた環境で発生するコミュニティについては快適な方向に成長していく必要が必要でしょう。

快適さというのは必然的なデザインを持つこと

しかし快適というのは難しいですね。

これはマイルドな言い方であって、僕が言いたいのは植物のように合理的な理由があって、生存するための必然性があってそうなっていくという意味での快適さです。

快適というのは言葉の綾というわけです。創造社会論の講義に寄せて言えば、成長にデザインを組み込み、合理的に洗練されていく姿が良いと思う。

ではそのデザインとはどういうものかというと、松川先生はこのように説明されていました。

形があって、コンテクストがある。

形というのはさっき説明した単純な構造の繰り返しでできたモノと言ったくらいの意味でしょうか。

で、コンテクストなんだけど、松川先生は「価値」とか「評価」とか「意味」って言ってました。

松川先生は植物の成長の仕方を建築に応用できないかという研究をしている訳だけど、例えば日当たりという基準に照らして成長させる建築モデルとか、一人当たりの面積を広くという基準を優先する建築モデルとかっていう風に、形があって、価値とか評価基準を足すことで、合理的な洗練されたデザインを作っていくと。

今では住宅とかも画一的なデザインになっているけれど、植物の成長システムを応用すれば、多様で様々な価値観に沿った、洗練されたデザインの住居ができていくんじゃないか、というようなことをおっしゃっていました。

コミュニティに話を戻しますと、僕はこの話を聞いて、コミュニティにもまったく同じことが言えるのではないかと思いました。

人間関係やコミュニティの発生は多様なものであるはずなのに、どこか画一的で、そうなる必然性がないのにとりあえず形(機能)だけは存在している。

僕はコンテクストと聞けば評価とか価値って聞いてもピンとこなくて、普通に「文脈」と言われた方がしっくり来るんだけど、コミュニティも形だけではなく、文脈を加味したデザインが必要だと思うのです。

それは何故か。

洗練されたコミュニティに必要な形と文脈

コミュニティというものは存在します。

しかし、コミュニティが生存戦略上必ずしも必要なものかと言えば、今はそんな状況ではないと思う。

一応市とか町とか村とかって単位、もっと小さなレベルでも個人的なレベルでもコミュニティというものは存在しますが、そのようなコミュニティに必然性もとい生存戦略上の合理的な意味があるとすれば、やはり相互扶助だったり生きる楽しみだったり、何かあるはず。

もとは一人一人ではしんどいけど、何かのときには皆で力を合わせた方が良いよねっていう人間の生存戦略に合わせて作られたものばかりのはずです。

しかし、そういう風に考えるとどこか形骸化したコミュニティもあるのではないでしょうか。

みんなで祭り作って盛り上げたら面白いよな、経済も循環するし、何より活気になるし、よし何人かが中心になって町の人みんな巻き込んで楽しもうぜ的なものだったのが

今年も祭りの季節がやってきた。なんとかして示しつく程度に盛り上がらんとならん、予算もアイディアもなにもないけど、俺たち実行委員会だからやらんとしょうがないべ祭り

という状況になっていないだろうか。

上記は一例だしもっと別の合理的な理由があって市とか町とかそれに付随する団体とかがあるんだろうけど、言いたかったのは、文脈に沿ってコミュニティは生まれたはずなのに、いつのまにかコミュニティがあるからそれらしいことをしなければならなくなることがあるということ。

人がまとまり何かをする必然性も楽しみも合理的な意味もないのであれば、それは形だけのものです。誰も快適でないなら、洗練されたデザインとは呼べません。

コミュニティのためのコミュニティ。コミュニケーションのためのコミュニケーションみたいなことでしょう。

個人レベルでも何でも、コミュニティという形をとりあえず作ろうとする人がいるけれど、文脈も同じくらい大切です。

だって文脈なく友達が出来たりしないでしょう。形だけの友達なんて友達じゃないでしょう。

そんな単純な人間関係の集合がコミュニティなんだから、コミュニティにも文脈があってしかるべきです。

形と文脈の関わり合いが洗練された生存戦略となり、快適なデザインを作り出すのですから。

関連記事→「物語」に対するアレルギー反応/二番煎じにならないために

単純な人間関係が複雑なコミュニティを創る/形に文脈を添えてデザインするコミュニティ作りの考え方(完)

スポンサーリンク
スポンサードリンク