何度も何度も書きたくなる、まちは人間だ、ということについて

まちづくりを考える

何度も繰り返しブログで書きたくなることがある。

誰にも気づかれないけど、ほぼ全く同じ内容の話を、定期的に書いています。

それは、僕はこう思うんだけどどう思います?って多くの人に問いかけたいという動機ももちろんあるけれど、それよりなにより、何度も立ち返る命題のようなものを自分の中の定点観測できる信念に近いものと捉え、それが揺らいでないか、間違ってないか?を確かめるための作業でもあります。

また、もっと簡単に伝えられないだろうかというリトライの感覚もある。つまりそれだけ何度書いてもうまく書けないことでもある。

あとかなり正直に言えば、今日書くことが定まりきらないときに引っ張り出してくる話しというだけでもある。

そういうのがいくつかあるんだけど、今日は何が書きたいかというと、「まちは人間だ」ということについてです。

この話もいっつもまとめきれない。

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まちが好きなのは、「良い」からではなくて、好きだから良く感じるんだろう

自分のまちとか、自分に縁のある地域が好きなのは、そのまちが「良い」からではないと僕は思います。

まちや地域を、まるでちゃんと人格のある一個の人間だと捉えると、この感覚は分かってもらいやすいかもしれません。

例えば自分の友達を思い浮かべてみて、あなたがその友達と仲が良いのは、もしくはその友達のことが好きなのは、多分「良い箇所がある」からばかりではありませんよね。

そりゃいいところはいっぱいあるんだろうけど、優秀だったりすごい資格持ってたりお金持ちだから好きなわけじゃなく、つまり長所があるから付き合ってるわけではなく、条件付きで友達契約を結んでいるのではないと思う。

ダメダメなところがあっても、社会で特別役に立ちそうじゃなくても、友達は友達。合理的に考えれば嫌っても良いはずなのに嫌いになれないことってけっこうある。

仮に友達が働いてなくたって、取柄なんかなんもなくたって、失敗ばっかりしてたって、見た目がイマイチだって、ちょっとズルくても、友達は友達だし、そんなに簡単に嫌いにならないんじゃないか。

お金が無くなったり、人気がなくなったり、地位を失ったりした途端、その人のことが嫌いになるなんてことは、純粋な友達関係ではあまりないはずです。

まちだって同じではないでしょうか。

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長所や魅力がなくても好きなものは好き

過疎化が進む地域はどこもピンチだと思います。

かつてはある程度栄えていて活発だった地域も過疎化が進み寂しくなっている。多くの地域が同じような状況で、同じような歴史だと思う。

今や人目を惹くものは無いし、お金もないし、流行が流れてくるのは遅いし、気の利いたお店なんかもなくて、はっきり言って冴えないけれど、愛郷心ってそういうことで揺らぐものではありません。

何故なら、自分のまちや、縁のある地域が好きなのは、そこが特別に「良い」からではないからです。社会に自慢できる優れたところだから好き、というわけではないからです。

あなたがお友達のことが好きな理由、もしくは恋人のことが好きな理由を、全然説明もできないし改めて聞かれたら長所なんてないし、むしろ人並み以下じゃない?って分かってるのに好きなのと同じように、まちを、自分が親しんだ場所を、どうしようもなく好きになることはある。

むしろそっちの方が主流だと思う。

改めて問われれば長所を挙げられないこともないけれど、その長所が無くなったからといって、好ましい感情ってそうそう簡単に消えるものではないんじゃないだろうか。

まちが好きだと思うことと、人を好きだと思うことって似てるなって思うのです。

だからまちは人だと僕は思う。

 合理的なまちづくりでまちがサービス団体に

まちづくりや地域おこしの文脈では、まちの魅力をアピールして、お客さんを集めて、ホスピタリティを高めて満足してもらう、リピーターゲット、みたいな風潮になってしまいがちだけど、そういう風にまちの「良さ」をこさえるのって、なんだか就職活動みたいです。もしくはお見合いのプロフィールづくりみたい(イメージで言ってる)。

まちを何とかしたいと思うのは分かるけど、あるんだかないんだか分からない長所を並べて、短所は長所に置き換えて、魅力的で使えるものとしてパッケージングして、買ってもらうという手続きが行き過ぎてしまうと、人が人材とか言われるのと同じように、まちはすっかり商品になって、サービス団体になる。

就職活動の時期に友人が苦しんでいる様子を疑問に思ったのと同じような気持を、まちづくりに感じることがあります。

なんで僕がこんなに好きな友人が、社会には認められないんだろう。

社会は何を求めてるんだろう。普通に優しくて、面白くてってだけじゃダメなんだろうか。

ダメなんでしょうね笑

使えなきゃならん。賢くて要領良くて少々のことじゃへこたれないヤツじゃなきゃいかん。

まちもきっと、友達として良いヤツ程度では社会に認められないんだろう。優秀で魅力的じゃなきゃいけないんだろう。

こやってグチグチ言いつつも、長所を磨くとかお気に入りを誰かに知ってもらうとかいうことにはまったく疑問はないしやるべきだと思う。なんなら地域ぐるみで魅力を発信するとかもやるべきだと思うしやるしかないとは思う。

そういう時期なんだろうし、やるからには戦略的に、地域は「魅力を発信」しなければならないんだろうけど、まちは市場じゃなくてあくまで人間の集まりなんだから、人間は利害関係でばかり動くわけじゃないし、長所ばかりを好むワケではないという不合理を、大切にしなければならないんじゃないだろうかとも考えるのです。

最終的には気が抜ける場所になることを

思えば、大人になって、「社会」の中にいればいるほど、人間関係が利害関係にスライドしていきがちです。

自分は利用価値が高くないといけないなと感じることは多い。

自分という人間は人の役に立たなければならないし、出来ることをしっかり持ってなきゃいけないし、魅力的で、賢くて、良い人間でなければならないというプレッシャーが、どんどん大きくなる。良い人間じゃなきゃ、優秀な人間じゃなきゃいけないという気持ちが強くなる。

優秀で良い人間になりたいと感じるのはある意味当たり前だと思うけど、そうじゃなきゃいけないなんてことはないとみんな知ってるはずなのに、社会ではどうも、自分は「良く」なければならないと強く強く感じる。価値がなければいけないんだと感じる。いっそロボットになったら楽に生きれるのにと思う。

まちだって、多分良くなきゃいけないなんてことはないんだけど、今の状況ではやっぱり良いまちで、魅力的なまちで、有意義なまちでなくてはならなくて、そうじゃないと生きていけないんだろう。

まちはかなり市場っぽくなってしまってるけど、やっぱりまちって、基本的には根本が怠け者で打たれ弱くて自分のことしか考えないダメダメな人間の集まりであって、人間味そのものだと思うんだよな。

そういうのどうにか取り繕って社会の世知辛さのなかでお互い頑張るにしたって、まちに必要なのはなんか分かんないけど好きだよって言ってくれるお友達で、人に必要なのもまた実家みたいに気が抜ける、だらしなくても許してくれる場所なんだろうなと思う結局。最終的には。

 

愛郷心の正体を探れ/なぜ愛着は生まれるのか

 

何度も何度も書きたくなる、まちは人だ、ということについて(完)

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