モモを探して。/坂爪圭吾氏とモモの共通点

『モモ』を読んだことがない人にモモの話しをするのは馬鹿らしくなってきます。

文化的なものの役割というところから出発して、いつの間にか辿り着いた『モモ』。

書くべきことが多くて何度かに渡って書いているけれど、ここも大事ここもすごいって書き出していけば結局のところ全て引用しなければならなくなります。

『モモ』に捨てるとこなしだし、別に付け加えることもないのです。無駄がお嫌いな方はこんなブログ読んでないで図書館にでも行くことをおすすめします!

しかし、それでもこの物語の主人公である、モモの話しはしなければ、僕はすっきりしません。

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モモのところに行ってごらん!

モモは住む家のない浮浪児です。

物語はモモがある町の円形劇場あとに辿り着き、そこを寝床とするところから始まります。

モモはすぐに町の住人にとってなくてはならない存在となりました。

それは、モモがある能力を持っていたからです。

小さなモモにできたこと、それはほかでもありません。

あいての話しを聞くことでした。

なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。

でもそれはまちがいです。ほんとうに聞くことができる人は、めったにいないものです。そしてこのてんでモモは、それこそほかにはれいのないすばらしい才能をもっていたのです。

モモ(岩波少年文庫)23Pより引用↑

ほんとうに聞くことができる人は、めったにいないものです。

これはホント最近になって分かってきたことです。久しぶりにモモを読んで、一番衝撃的だった部分、なんだけど、やっぱり人の話しを聞くなんて自分は出来ていると信じている人は多いと思います。

モモに話を聞いてもらっていると、どうしてよいかわからずに思いまよっていた人は、急にじぶんの意思がはっきりしてきます。

ひっこみじあんの人には、きゅうに目のまえがひらけ、勇気が出てきます。不幸な人、なやみのある人には、希望とあかるさがわいてきます。

たとえば、こう考えている人がいたとします。

おれの人生は失敗で、なんの意味もない、おれは何千万もの人間のなかのケチなひとりで、死んだところでこわれたつぼとおんなじだ、べつのつぼがすぐにおれの場所をふさぐだけさ、生きていようと死んでしまおうとどうってちがいはありゃしない。

この人がモモのところへ出かけていって、その考えをうちあけたとします。

するとしゃべっているうちに、ふしぎにじぶんがまちがっていたことがわかってくるのです。

いや、おれはおれなんだ、世界じゅうの人間のなかで、おれという人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世のなかでたいせつな者なんだ!

こういうふうにモモは人の話が聞けたのです!

『モモ』23、24pより引用↑

だから町の人々は、何か悩みごとがあると「モモのところに行ってごらん!」と言うのが決まり文句になっていたそうです。

モモは評価しない

あなたには『モモ』を読む時間はあるか/ミヒャエル・エンデと文化的なももの役割

にも書いてあるのですが、

「評価しない」というのは重要なポイントです。

文化的なものには傾きを矯正する力がある。

実際に傾いていようがいまいが、そこに立つ人が聞く耳を持たなければ意味がありません

言葉は伝わっても、伝わらないのです。

そんなことよくあるでしょう。

タバコは体に良くないよ!
そうだよなーとか言って全然止めようとしないとか。

なぜかというと、意見や評価というのはその程度のものだから。
一つの正解ではあるけれど、同時に一つの不正解でもあるから。

また、モモを読む/現代の必読書『モモ』に学ぶ自分だけの時間の見つめ方

では

自分の時間を評価しないということが大事だということを書きました。

自分の時間を評価するということは、そこに有益、無益の判断をすることになってしまう。

何を持ってその判断をするかというと、自分が何を得られるか、自分にとってメリットはあるのかという観点です。

その観点は必ず未来の視点に立つものだから、今この時間を生きることが難しくなる、つまり死んだ時間を生きることになります。

だから評価するのではなく、ただ見つめることが大事。
フラットな視点で見つめ、今を生きる。

それが出来るのがモモだったのです。

モモは文化的なものの象徴?

普通「文化」といえば教育とかスポーツとか芸術とか、あとは風習とか伝統とかだと思います。

その地域の文化とかって言うときに浮かぶのはこういうことのはず。

だけど文化というものの本質は「文字化するまでのこと全て」。

まだ言葉になっていないこととか、うまく伝えられないことをどうにかして伝えよう、なんとかして理解しようという営み全てのことなのだと僕は思います。というかそう思うようになりました。

そう考えれば、文化という言葉と芸術との親和性はすごく高いように思われる。

言い表せないことを絵にしたり歌にしたり踊りにしたりして表現する訳だから。

説明できないけどこの絵すごいな!って思ったり、歌を聞いて泣いてしまったりするのは何か言葉にできないものが伝わったからですよね?

だから、文化というのは創造そのものであり、創造性を刺激するものでもあるはずなのです。

モモが文化的な視線を持った、文化的な存在なのだとしたら、人の創造力を刺激するはず。

言うまでもないことですが、あいてがおとなであれ子どもであれ、話を聞くモモの態度にはすこしの違いもありませんでした。でも、子どもたちが円形劇場あとにきたがったのは、また別の理由がありました。

モモがここにいるようになってからというもの、みんなはいままでになく、たのしく遊べるようになったのです。

たいくつするなんてことは、ぜんぜんなくなりました。

モモがすてきな遊びをおしえてくれたからではありません。モモはただいるだけ、みんなと一緒に遊ぶだけです。ところがそれだけで――どうしてなのかはだれにもわかりませんが――子どもたちの頭に、すてきな遊びがひとりでにうかんでくるのです。

毎日みんなは新しい遊びを、きのうよりもいっそうすてきな遊びをかんがえだしました。

『モモ』34pより引用↑

坂爪圭吾さんは現代のモモ?

ここまで書いてて、なーんかやっぱ童話だし、モモが人の話しが聞けるとか創造性を刺激するとか言っても「設定でしょ」って思う人の方が多いんじゃないかなって思うのです。

この記事も一意見である以上、伝わらない要素というのは持ち合わせているんだけど、ただの『モモ』の読書感想文だと思われるのも心外だななんて思ってちょっとモヤモヤ。もっと説得力が欲しい!

あーこの記事みたいな話どっかで聞いたことあるんだよな、って思って考えて考えて、思い出しました。

イケダハヤトさんのこの記事↓

坂爪圭吾氏は「コンテンツの精霊」だ

これこれ。是非読んでみてください。

いや、何がすごいって、この人が来ると、その土地にコンテンツが生まれるんです。ぽこぽこと。日本神話の神様みたいな感じ。

ってイケダさんは仰ってるんですが、モモまじでこんな感じ。

ん、モモをマジにしたらこんな感じ、なのかな?

時代的にはモモが先、リアル度では坂爪さんが上。笑

坂爪圭吾さん有名ですよね。あえて失礼を顧みずモモに寄せた言い方をさせてもらうけど、この人も「浮浪児」です。

坂爪さんがどんな人でどんな生活をしているのかを知らない方は是非ブログをご覧ください。↓

いばや通信

とことんモモに寄せて

坂爪さんに影響を受けて素晴らしいコンテンツを生み出したと言うブロガーさんのうち、イケダさんがはじめに紹介していた「まあちゃん」という方の文章に、僕も驚きました。

僕がすごい!モモみたい!と思った文章はこちら。

内容はと言うと簡潔に説明すれば私の悩みを只只、坂爪圭吾氏にぶつけるという祖業だった訳である。

そんな不快なことを発する不快な人間との不快な時間だったと思う。

だが彼は優しく真摯に応えてくれた。

嘘・偽りもなく「もののけ姫」のアシタカのように淡々とその《真実の眼》で私という人間を直視して話してくれた。

私も自分の悩みを話していること自体が愚問であることは最初に坂爪氏にお会いした時に本能的に気付いてはいたのだが、理性が「今日はコレを聞いてみたいんだから聞きなよ」と命令してきた。

橋爪圭吾氏とドライブデートしてきたよ@土佐横浪スカイライン

ブログトップはこちら!→「まあちゃんは心配性

そして以下を読んで欲しい。『モモ』からの引用です。

モモに話を聞いてもらっていると、ばかな人にもきゅうにまともな考えがうかんできます。モモがそういう考えをひきだすようなことを言ったり質問したりした、というわけではないのです。

ただじっとすわって、注意ぶかく聞いているだけです。その大きな黒い目は、相手をじっと見つめています。するとあいてには、じぶんのどこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考えが、すうっとうかびあがってくるのです。

『モモ』23pより引用↑

モモは大きな目でふたりを見つめています。ニノもニコラも、その目が何を言っているのか、はっきりとはわかりませんでした。

内心ではおれたちのことを笑っているのかな?

それとも、かなしんでるのかな?

モモの顔からはどちらも読みとれません。けれどふたりはきゅうに、じぶんのすがたのうつった鏡をつきつけられたような気もちがして、はずかしくなりだしました。

『モモ』28pより引用↑

ね、驚くほど似てるんです。

まあちゃんという方が言うところの「真実の眼」という表現と、モモの「大きな黒い目」という表現がリンクしている。

モモを探して

恣意的な編集をしたことは否めませんが、坂爪圭吾氏は現代のモモである、という結論にはこのように至りました。

きっとこういう人が、文明に傾いた現代においては必要なんだ、なんて思う。

だけど、僕は現代のモモはもっといっぱいいっぱいいると思う。

どういうことかと言うと、モモは決して坂爪さんのように屈強で達観した(少なくとも表面上はそのように見える)人物ではなく、あくまで小さな弱々しい女の子なのです。

灰色の男たちや死んだ時間を生きる町の人たちに怯え、離れて行ってしまったお友達のことを考えて寂しく、ついに変わってしまった友達を見て涙を流す子なのです。

カシオペイアとマイスター・ホラという協力者に出会ってようやく灰色の男たちと戦う決心をした子供です。

モモは戦う必要なんかありませんでした。

近くにお友達がいれば良く、町の人が変わらずモモと話をしてくれれば良く、仕方ないとか時間がないとかもっともらしいようなことを言ってモモを忘れるようなことがなければ良かったのです。

モモのように今を生きる人間にとって、今この時間を共有する相手がいないということはすごく寂しく、心細いものです。

もっと豊かな時間を過ごしたいと思っている人、もっと無意味に、もっと刹那的に、今をもっと噛みしめたいと考えている人、そして今を他人と分かち合えないことに漠然とした不安や寂しさを感じている人。

そういう人たちはみんな現代のモモです。

このブログは誰を探しているのか、誰を見つけるのか、とは前も書いた記憶があるけれどようやく少し具体性を帯びてきた気がします。

「モモを探している」というのが、今の答えです。

てか多分、僕が今泣く寸前のモモなんだ。

モモを探して。/坂爪圭吾氏とモモの共通点(完) 

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コメント

  1. ダイパン より:

    他者をオリジンだと認めたくないだけの記事だナ
    創作物の世界いいだしたらフォレストガンプとか、あるいはもっと古いものでもいくらでもいるでしょ

    この記事に限ったことじゃなく
    どーもスッキリしないんだよあんたの記事。
    自意識から書いてるからだと思うんだけどね なんつーかハートから出てきてない。つまり本物じゃないんだよ