無意識に聞いてみよう!/例えあなたの行動が理解されないとしても、それを説明できる必要はない。

しつこくしつこく文明と文化について考えています。

今回の記事も「文明と文化」、『モモ』、そして「文化的な領域」についてのものです。

今思ったけど文明と文化について考えるってすごいつまんなそうだよね笑

第一印象つまんなそう笑
だけど読んでみると面白い。そんなものを書くことが理想です。

結果的にどうか知らないけど決してつまんないこと書こうと思ってる訳じゃないので付き合ってくれる方は付き合ってくれると嬉しい。

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『モモ』を読んで僕は予知能力者になったよ

時間泥棒と戦わんとするモモの導き手とも言える存在であるカメのカシオペイアは30分後までに起こることを正確に予知できるすごいヤツです。

甲羅のところに文字が浮かんでくるから会話ができる可愛いカメ。

爬虫類飼うとしたらカシオペイアだなあなんて思っていると不意に思い出したものがありました。

それはお正月明けにこのブログで書いた今年の目標の記事に使った画像。

カメ

カ、カシオペイア!って思った。

もうこのカメがカシオペイアに見えて仕方なかったし、未来が見通せる神々しい爬虫類に見えて仕方なかった。

いやいやただのカメだろ、とみんな思うだろうけど、僕はある理由があって、今年のお正月にこのカメの画像を選んだのには意味があるのではないか、言っちゃえば僕自身が「文明と文化」という小テーマと『モモ』に行き着くことを予想していたのではないかなんて思った。

無意識のうちに未来に起こることが分かっていたのではないか、ということです。

なんだろうこの頭の中で遠く同士の脳細胞がリンクする感じ。

点と点だったものが結びついて立体的になる感じ。

まさかこれが無意識を意識化する瞬間か!?

そんなことを思った訳です。

やっぱり予知能力者じゃないよ

僕は予知能力者ではありません。

だけど上述の通り、僕の未来は決まっていたのかもしれないななんて思ったのは本当だし、そのことを何となく無意識の内に察知していたのかなと感じたのも事実です。

というのも、僕は今年おみくじの言うことを全面的に信頼するということに決めていました。

いつもはおみくじなんか義理?で引くくらいなんだけど、今年は多少悩み事も多かったもので、これは神様的なものの判断を仰ごうなんて思って引いたのです。

結果は焦るな、という大変力強いお言葉で、さらにそれはそのときの僕が心から欲しかった言葉。

そう、僕は焦っていたのです。

それは今思えば非常に現代的な焦りで、まさに灰色の男に時間を奪われた人のように自分の心を失っている状態でした。

根拠はないけれど、早くやらねば、早く形にしなければ、適格に伝えなければ、要領良くやらなければという気持ちに支配されていたのです。

そしてそれがなかなかうまくできないことにまた焦り、集中力も途切れ、気力を失いかけていました。

先のこと先のことを明確に形作っていく作業と、僕の体内に流れる時間のギャップに疲れていたのです。そんなときに焦るな!というおみくじ。

すごくホッとしました。

でも簡単には焦る気持ちというものは払拭できません。

だから後日また別の神社にいっておみくじを引きました。朝日神社の神様嘘ついたかもしれんと思って。まだ灰色の男の口車から完全にのがれられていなかったのです。

するとすごいびっくりしたんだけど、また、焦るな!ってお言葉が書かれたおみくじだった。

それがこの記事のトップ画像のおみくじです。

ああもうこれははいはい。これは間違いないでしょう。完全に神の世界で意見が一致してらっしゃる。セカンドオピニオンを受けて同じ診断なのだからもうこれは信じるしかない。

そんな経緯がありまして、今年の目標を打ち立てるにあたっておみくじの言うことを全面的に信頼しようと思ったのです。

で、まあ正月だし縁起物ということでカメ、焦らないという意味でカメ。

そんなつもりで選んだ画像ですから、予知もくそもない、言わば必然に近い偶然が起こっただけ。

そりゃ数か月後に剣淵を訪れることになるとも思ってなかったし(剣淵の夜①などを参照ください)、そこから「文明と文化」、「文化的な領域または土台」について考えることも、そして『モモ』を読み直すことになるとも、カメというリンク一点でおみくじのことを思い出すとも思っていなかった。

ただ、僕の今の行動と、今のような考え方に至っているのは(僕の中で)非常に正しいのだという確信めいた興奮の発光が脳内で起こったことは事実なのです。

それはどういうことかと言うと、僕は自分が納得できる道を順調に進むことができているし、今はそれが非常に楽しいということ。

感覚に従うことで、結果的に精神的に豊かな時間を過ごせているということです。

無意識に従うから納得できないことはしない

僕はわりと昔から頑固で、自分が納得できないことはしません。

こう言うとかっこいい風だけど、割り切ることが苦手で、融通が利かず、腹が据わってないから自分がコントロールできない部分が極端に苦手なビビりというだけ。

海は溺れたら嫌だから入らねえ、飛行機は怖いから乗らねえと言ってるのと同じくらいのことです。モットーとかじゃなくてただのダダ。

ただ実際に生きてる上では別にさしたる恐怖感とか確固とした理由があってやらないということは珍しく、ただ何となく惹かれないとか、熱くなれないという理由しかありません。

いやそんなことみんな当たり前にあるだろう。別に面白くもなんともないものに付き合って、こだわりもくそもない仕事して、嫌々ながら興味ない人と付き合って生きてんだよって話です。

そういう一連のことに耐えられるならそもそも苦労しないのですが、僕は空が怖い人が飛行機に乗りたくないレベルでそういう一連を割り切ることができないのですから見方によっては立派な適応障害です。

そんな自覚があるから、僕は自分を肯定する可能性のあるものはとても大事にします。

そのまま行け、好きにやれと言われることが、僕はきっと人の1,5倍から2倍くらい嬉しいのです。

なんの根拠もなく、なんとなく嫌だとかなぜか惹かれないという無意識の領域に身を任せて生きてきたけど、そんな生活の中で必死に集めてきた自己肯定の香りがするものが、何かのきっかけで繋がって、ピンと音をたてて立ち上がるとはっきりした形になって見えてくる。

つまり自分の中の「なんとなく」が思っていたよりずっと大きな意味のあるものだと気付いたとき、おお、そりゃ説明できないよな、そりゃ伝わらないよなって納得できる。

僕は性格的にやるよりも、やらないことの方が明確な傾向があるからこんな話をしているけど、やっぱり思い返してみると何かを「やる」ときも「なんとなく」のことが多かった気がします。

なんか必要っぽい。なんか行かなきゃダメっぽいという理由で生きていました。

そして、やるにせよやらないにせよ、あのとき無理くりに考えてることを説明しなくて良かった、理解してもらおうと思わなくてよかった、なんとなく行動して良かった、自分の感性を信じて良かったと思えるものです。

今になってやっとその感覚が確信に変わったような気がします。それが嬉しいし、今まで変に割り切らないで良かったなと思います。

だって、自分でも意識できない領域のことなんですから、分かるところだけ説明しても氷山の一角的な理屈しか伝えることができず、その時点で100%理解されたとしても心の中では90%分くらい言い足りないことがあるということだもの。

それはイコール、伝え切れた分にも多分に嘘を含むということではないでしょうか。そんなものでもとにかく早く伝えた方が良いというのは、やはり納得できない。

ご立派な動機や理由をこしらえなくて良い

さて今回の記事で何が言いたかったのかと言うと、要点は二つあります。

ひとつは、自分の行動の動機とか理由とかは、例え人に理解されなかったとしても、説明できなきゃいけないなんてことはないということ。

二つ目は、自分が意識できていない部分が形になるまでには、長い時間がかかることもあるということ。

これらの要点をまとめると、前回の記事とも重なるんだけど、時間の一つ一つに意味づけをする必要はないどころか、意識できる範囲の時間に意味づけをしてしまうと無意識の領域が小さくなってしまうかもしれないからもったいない、みたいな話になります。

合理的で効率的で説明的で文明的な領域というものはやはりとても小さいものです。文化的な領域、まだ言葉になっていない領域も大切なのではないでしょうか。

まだまだ分かりにくいですね。

例えば、100円出せばジュースが買えると言えばその通りで誰も文句はない。

だけど100円あれば買えるものはまだまだたくさんあるかもしれない。

ジュースのための100円と決めてしまえば、その100円は確かにジュースに変わる100円でしょうしその価値があります。

しかし、財布にしまってある100円に意味づけを行わなければ、必要なときに100円のことを思い出すでしょう。

喉が渇いていればジュースを買えばよい。
寂しければ電話をかければ良い。
なぜか閉じ込められちゃったときに窓のネジを外すのに使えるかも。

意味づけを行わないことで、得られるものの幅が広がる可能性があるとはこういうことです。

必要なときにハッと思い出せるものって、なんとなくいつか必要になるかもなあなんて漠然と持ってたものかもしれない。

だから、本を読むときにこれでこれを学ぼうなんて決め打ちしなくて良い。

モモを読む/現代の必読書『モモ』に学ぶ自分だけの時間の見つめ方

人と会うときに「繋がり」とか「交流」とかって名目があるとげんなりするならそれで良い(と僕は自分に言い聞かせています)。

僕の思考はまるでカメの歩みのごとく遅いです。

神様はそれで良いのだと言ったし、今は僕もそれで良い、それが良いと思っています。

だって今は言葉にならない部分や説明できない部分を大切にする空間や人の気持ちの上でのゆとりがすごく足りないと思うから。

分かりにくく、伝わりにくく、見えないものは敬遠されて、丁重に遠ざけられるから。

カシオペイアは「オソイホド ハヤイ」と言いました。

正直よく意味は分からないけど(笑)、カシオペイアが言うならまあ、そうなのかもしれない、と思っています。

無意識に聞いてみよう!/あなたの行動がたとえ理解されないとしても、それを説明できなきゃいけないなんてことはない(完)

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