自分の頭で考えることができない/枠組みに依存する人間。

思考が止まるということは大問題です。

コミュニケーションは崩壊するし、問題は解決できない。

何より生きてるって実感がなくなる、と言ったら言い過ぎでしょうか。

今回は、前回の記事の続きのような感じ。

人は「それっぽい」ことをしようとして、その枠から出ようとしない傾向にあり、それが問題の解決を阻んでるというところに注目しようと思います。

「上司」は「上司っぽく」振る舞い、「警察」は「警察っぽく」振る舞う。 じゃあ「人」は本当に「自分」の頭で考えることができるのでしょうか。何物でもない自分で、純度100%の自分で考えることができるのでしょうか。

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場に依存する

僕たちは場に依存します。 これはどういうことかと言うと、ホント文字通り“場”です。

例えば、「会議」という場があれば、人は会議に相応しい発言をします。

「女子会」であれば女子会っぽい話題が話される。

会議室で急に「あの、ちょっといいですか、昨日のファイターズ戦で大谷が一塁ランナーに盗塁を許したあと、栗山監督はすぐに彼を交代させましたが、あの采配についてどう思われますか?」って話さない。

会議は議題について話す場であり、関係ない話や雑談をするところではありません。

場に依存する以前の問題です。 でも、ぶっちゃけみんながみんな真剣に会議のこと考えてる訳じゃないでしょ?全然違うこと考えてる人もいっぱいいるはず。

つまり、別のことは考えられるし、発言することも可能なんだけど、普通はそんな話しない。

会議のときは、会議に関係がある発言をする。

じゃあ、「会議に関係ある話」って人はどうやって決めてるんでしょうか。

それまでの経験で自然に培っていくものなのでしょうか。

大人になるに従って、蓄積するものが増えるに従って、「考えられる範囲」が狭まっていくのはちょっとおかしい話ですよね。

役割に依存する

スタンフォード監獄実験というものがありました。

スタンフォード大学で行われた心理実験で、ランダムに集めた一般人に数日間、一方は囚人、もう一方は看守の役割を与え、経過を観察するというもの。

結果的には、性格に関係なく被験者は与えられた役割らしい行動を取るようになりました。

囚人は囚人らしく、看守は看守らしく。

この実験からも分かる通り、人は与えられた役割に依存します。

例えば、火災現場で勇敢にも火の中に飛び込み救助する人は、勇敢だからではなく「消防士」だから火の中に飛び込むのかもしれない。

また、ある人が正しい行いをするのは、その人が善人だからではなく「教師」だから、正しい行いをするのかもしれません。

いやいやもともとそういう人だったんだろって言われるかもしれないけど、役割に依存してるだけって言われれば完全に否定もできないはず。

火事の現場で、消防服を誰かその辺の野次馬を適当に選んで着せたら、その人はなかなかそれっぽく振る舞うんじゃないかなと思うのです。僕はそれなりにやる気になると思う。

反対に「役割」を笠に着て「本当の自分はしたくないこと」してませんか?

仕事で営業なんかしてたら、ときにはお客さんの無知につけこんで商品を売ったり、実際よりも口八丁で商品を良く見せたりするでしょう。

騙してるみたいで嫌だな…って思うこともあるでしょうけど、仕事だからって飲みこんでませんか。

しかもこれを売るのが仕事なんだから、ちょっと気が咎めてもやらなきゃいけない。

仕事って、社会って厳しいものだって自分を正当化する。

家族に同じもん売るの?って聞いたら、え?ってなるかも。

家族の前では「営業職の○○さん」ではなく「息子」になるからでしょうかね。

僕も「ライター」という役割にかこつけて「本来の僕らしくないこと」書いたりすることありますもんね。

媒体に依存する

僕はあまり、ってかほとんど使わないんだけど、SNSを眺めてると媒体の力がすごいなと感じることがあります。

ほとんど利用してないから偏見かもしれないけど、みんなフェイスブックではフェイスブックに相応しいことを、ツイッタ―ではツイッタ―の話題、インスタグラムではインスタグラムっぽい写真を選んでアップしますよね。

フェイスブックはアカウント持ってるけど何にも使ってなくて、ツイッタ―はブログの記事置き場として、たまに「ぽい」こと書きたいと思ってつぶやくけど、なんかあんま意味感じないし書くこともありません正直。

見るだけって言うなら僕はツイッターの方が好きかなって程度。

使い始めは ツイッタ―今更始めた理由とたった3日で得たものについて みたいな記事を勢いで書いたけど、まだいまいち溶け込めないなって感じです笑

不思議なのが、フェイスブックで見るとみんなまともなちゃんとした人に見えるなーってことです。

いやほとんど利用してないからほんとに偏見なんだけど、みんな立派なこと考えてる立派な人に見える。そんなことないだろって思う。みんな本当はもっとろくでもないだろうって。

自分の見せられるところ置き場みたいなところなのかなフェイスブックって、って思って、僕はいまいち何を上げるべきか分からず使えません。この使えないってあたりが、媒体に依存してるってことなんですよね。

実際は何を上げても良いのですから。

本当の自分はどこに?

僕らは必ずどこかの「場」で、なんらかの「役割」を負い、特定の「媒体」の上で考えたり発言したりしています。

歳を取れば取るほどそれは増えて、その場その場で「それらしい」ことをしている訳ですが、じゃあ、なんもない「すっぴん」の自分ってどこにいるのでしょうか。

家にいるとき? どうだろう。親だったり、子だったり、恋人だったりもするし。

家で一人でいるときなら素っぽいですよね。

テレビを見れば視聴者になり、本を読めば書評家になり、ブログを書けばブロガーになるけど。

僕だっていつもこんなブログに書くようなこと考えてる訳じゃありません。

でも何より、みんな「名前」を持っていますからそこからはみ出ることはできません。

きっと誰もが他人から見た自分の印象(○○君ってこういう人だよね、っていう印象)を裏切らないようにしているのだと思います。

僕らは自分自身さえ言葉で分けて、その枠組に自分から収まろうとします。

「それらしさ」を維持しようとして普通「上司」はこうしないとか、こう言わないということは決してせず、自分で決めた「上司」の檻の中から出ないように出ないようにしています。

無意識に。

もちろん、その場その場で相応しいことができることこそが大人であり、社会的に立派な人間なのかもしれません。

自分自身に強いるよりももっと強力に、それらしく振る舞うことは他人に求めます。

役割に背中を押されて出来ることもあるけれど、ときにはそれが強力な障害となることがある。

自分の行動や他人の行動を縛ることになることもある。

考えているようで、実は考えさせられている。

そんなときのために、何者でもない自分は何を選ぶだろう?どんなことを考えるだろう?という風に、たまに枠組みを外す練習をすると良いのかもしれませんよね。

ああなるほど。 多分こうやって人は旅に出るんだろうな。

本当の自分はどこに? きっと、誰も自分のことを知らない、どこか遠くに。

周りの人はやっぱりそうやって旅に出た人を必死に「自分探し」とかって枠に収めようとするんだろうけど、あながち間違ってないのかも。

他ならぬ“自分”の頭で考えるには、旅は手っ取り早い手段なのかもしれません。

自分の頭で考えることができるか/枠組みに依存する人間。自分探し。(完)

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