創作で開示すべき情報。/他人の苦しむ姿は見たいけど、ドヤ顔は見たくない。

創造とかってうるさく言ってるようだけど、このブログ上で主張してきた内容から生じた大きな矛盾から目を逸らす訳にはいきません。

記事を全て通して見てる人なんて皆無なはずなので多分言わなきゃ誰も気付かないだろうと思うのですが、それもなんだか悔しいので自分でその矛盾を浮彫にして行こうと思います。

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「できるまでを見せる」⇔「作為を見せない」

創造のクオリティ、その質を分かつ1番重要な要素はなにか。

では、「自分を消す」ことが大事だと書きました。

創造物を見たときに透けて見える「作為」、こう見て欲しいんだろうなという「思惑」が、創作物にとって蛇足となり、結果的にクオリティを下げてしまう。

だけど、このブログの根底に流れるテーマの一つに「できるまでを見せる」というものがあります。

もちろん個人的な意見ではあるけれど、単純にモノができるまでを見るのは面白い。そして来歴が気になるものである。しかもタネは暴きたくなる。

さらに言えばこうしてWEB上に記録を残し、何かができるまでの裏を見せることは、「誰かの参考になる」という、情報としての価値を見つめた結果でもあります。

作為を見せるな、思惑を見せるなと言ってるのと同じ口で、作為や思惑を見るのは面白いと言っているのです。

これは明らかに矛盾だと思うのだけど、この矛盾をどうにかしなければならない。

しかし、この二つの論理は必ず両立します。

以下、順に整理していきます。

人間は感情の生きものである

これは大前提です。

人は論理ではなく感情を記憶する。

人は理屈ではなく感情で行動する。

この論理が正しいかどうかはやはり分からないけれど、少なくとも、誰もが心当たりのあることのはず。

人は正しさよりは好ましさを選ぶもので、多くの人が正しいことを好ましく思うからこそ、世のなかはある程度の平和が保たれているのでしょう。

人々は正しいから正しく振る舞うのではなく、正しく振る舞う方が楽だから正しく生きているのです。

その人間が作り出すものは、やはり「感情」を原料にして出来ています。

このとき、人間が作り出すものにある大きな特徴を見出すことができる。

それは、自然発生的である、ということです。

創造は自然発生的である。

感情が自然発生的であるように。

自然に発生する感情の、高度な伝え方が創作

例えば僕たちは怒ろうとして怒る訳ではありませんし、怒ろうとして怒れる訳でもありません。

怒ってしまったから「怒る」というアクションを起こすのです。

同じように喜ぼうとして喜ぶのではなく、泣こうとして泣くのではなく、感情が先に生まれ、それに追従するように体が動く。

これも誰もが経験したことがあることのはずだけど、僕らは感情を表現しなければ気が済みません。

怒っているとき、ただ怒っていれば良いのに、わざわざ顔に出したり、声を荒げたり、態度で示したり、とにかく「怒ってるんだ」というアクションを起こすでしょう。

嬉しいことがあったとき、つい笑ってしまったり、誰かに自慢したりしたくなる。

持て余した感情は必ず僕らの体からはみ出して、表に出ようとする。自然に。

また、僕らは感情で生きているけれど、同時にすごく社会的な動物であり、自分が抱いた感情を誰かに知ってもらうこと、共感してもらうこと、伝えることをすごく大事にしている。

もちろん、自分一人だけでもはみ出た感情を処理することは出来る。だけどその感情がもし、とても複雑で、自分でもどうして良いか分からない種類のものだったとしたらどうでしょうか。

ただ笑うとか、怒るだけでは済まないとき、僕たちはその感情の形をそっくりそのまま別の形に変換しようとします。それが絵になるのか、写真になるのか、文になるのかは分からないけれど、いずれにせよ、自分の感情をそのまま表したものが作品になるのです。

産む行為はめちゃくちゃ苦しいんですけど、当然、できたモノで自分の感情が他人に伝われば嬉しい。共感してもらえたら嬉しい。

というわけで、人間に与えられた武器である「感情」の表現の、極度に洗練されたものが「創作」であると僕は考えます。

邪魔なのは邪念

「作為」や「思惑」はどうして邪魔なのかと言うと、純粋な感情からかけ離れているからです。

純粋な感情というのは何かって言うのはすごく説明しにくいんだけど、自然発生した感情以外の感情です。

例えば「怒った」とき、頭の中は「怒り」でいっぱいだと思います。

その「怒り」を構成する材料を頭の中で集めるでしょう。

誰かとケンカすれば、自ずと相手の悪いところで頭がいっぱいになるし、自分の悪かったところは都合よく削除されていたりする。

上手に編集して、自分の「怒り」という感情を洗練されたものにしようとする。

悪口/悪口

という記事をいつか書いたけど、日頃の愚痴も言ってしまえば「創作」だと僕は思います。質の良し悪しは置いといて。

だって怒ってる人の話しってだいたい事実と違うじゃないですか。二人別々に話を聞いたらどっちの言い分もすごい分かる。そりゃ怒って当然だよみたいになる。

どちらも「信用できない語り手」であり、よく出来たストーリーだったらだけど聞く方はまんまと騙されてしまう。

で、それは別に悪いことではないと思うんだけど、もしこのときの「怒り」が純粋なものでなかったら、なんかすごく興ざめじゃないですか?

「喧嘩が夫婦円満の秘訣☆」とか「長く付き合うコツ☆」とか言って、感情に任せて怒るんじゃなくて、感情を道具的に、目的を持って、利用するような白々しさがある。

そんな既製品みたいな喧嘩話を聞かされても、「自己満なら勝手にやってて。」って話でしょう。

それって多分「ここはちゃんと怒っとかなきゃな」くらいの気持ちで喧嘩が始まる訳で、なんか小賢しくて、別の「作為」や「思惑」が見えて、純粋な感情じゃないからつまんないんですよね。要領良くやっちゃってるよみたいな。

僕が言う作者の「作為」や「思惑」っていうのはこういうことです。別にそれ無理に表現しなくても良いんでしょ?怒ってる自分が好きなんだろ?っていう。

創造は完成する前に始まっている

上の段落の例で言うと、恋人と喧嘩してめちゃくちゃ怒ってる人の話しは「創造物」です。てか「創造物」だとします。

このとき、今実際に怒って色々言ってるのは「完成した創造物」

この話が(失礼ながら)非常に面白く、共感できて、聞いてるこっちもめちゃくちゃ腹立ったみたいな出来だとする。思わず人に話したくなるような。

じゃあこの話が「できるまで」っていうのは、できるだけ詳しく聞きたくないですか。

僕の場合、あくまでひと事だから、「相手側の事情も知りたいな」って普通に思う。

中立な立場でいたいとかじゃなくて、普通に野次馬的な気持ちで情報がもっとほしいって思う。

目の前に「怒り」を表現している人がいるとすると、その「怒り」が生まれるまでにあらゆる要素があったはずなのです。

創造は完成するずっと前から始まっていて、その始まりから完成に至るまでの道のりは十分創造的であると思う。だからそういうものは見えると面白いのではないでしょうか。

理屈は全く必要ないか

人間は感情で記憶し、行動する生きものだと思うけれど、論理や理屈が全く必要ないかと言えばそうでもなく、そういったものは感情をリアルに表現するための杖とか地図とかコンパスとか足掛かりみたいな、ナビゲーターの役割を果たします。

上手に道案内できればその感情を伝えることはできて、実際ストーリーには人の感情を揺さぶる一定の法則みたいなのはある。

人って馬鹿なもんで、だからある程度なら感情は論理でコントロールできて、水戸黄門みたいに毎回決まりきったストーリーなのに面白いみたいなことってあります。

海外のコメディードラマみたいに、けっこう決まりきった展開なのに面白いみたいな。

だけど、そういうセオリーはあくまで「感情」を引き起こすためのコンパスや地図(つまり道具)であって、道具を使うために感情を利用すればたちまち主従関係が入れ替わり、作為とか思惑が先に出て、純粋な創作じゃないから興醒めしてしまう。

それに形式やセオリーも果てしない経験と時間の蓄積が生み出した一つの創造物であって、インストールしてとって付ければ使えるものでもないんだろうなとも思うのです。

さらに加えて言えば、「普通人はこういう要素を組み合わせるとこういう感情が生じるもんだ」なんて理屈だけで作ったものって、それだけで言わば多数決で作った「平均的」で「平凡」で「取るに足りない」ものであって、わざわざ他ならぬ自分が身を削ってまで作るものじゃないですよね。

売るために要領よく多勢に迎合するのは商業的には正しいかもしれないけど、大量生産大量消費で経済が潤う時代でもないようだし、何より人間の感情の機微を満足させるにはあまりにも物足りない。

まとまるかどうか分からないけれど無理やりまとめれば、優れた創造は要領良くなんかできないだろうということです。

怒ろうとして怒れないように、作ろうとして作れない。

体からはみ出して、どうにかしないと苦しくて気持ち悪いから、人は表現するのだと思います。

この表現の裏に、人は「気になる」情報と「興醒めする」情報がある。この二つは全然違う。

ありていに言えば、というか色々屁理屈こねて来たけど結局言いたかったのは、「人は他人の苦しむところは見たいけど、ドヤ顔は見たくない」ということ、だと思います。

創作で開示すべき情報。/他人の苦しむ姿は見たいけど、ドヤ顔は見たくない。(完)

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