創造のコミュニティ/広い間口を用意し、創造に興味がなくても創造的になれてしまう仕組み

僕は割とめんどくさい性格をしているので、シンプルに物事を考えたり伝えたりすることはうまくできません。

参考記事→僕はめちゃくちゃ面倒くさい。

「文化的な土台」とか「創造社会」とかって「創造するコミュニティ」とか言うなら、「みんなでこれ作ろうよ!手伝って」で良いはずなのですが、わざわざ複雑にして固くしている傾向がある。

前回の記事でお話した通り、創作には本当の自信を集める力があり、創作で繋がったコミュニティは強固だと思っています。

だけど終わりのない創造の過程は厳しいもので、そういうものがいくら素晴らしいと思うからと言って、そんな意識の高さを押し付けるのはちょっと…って僕だって思います。

だってみんながみんな創作に興味がある訳ではありませんから。

この記事では、来る創造社会に向けて、創造で繋がったコミュニティを作ると息巻くことに対する欠陥を指摘する(つまり前回記事のダメだしね)と共に、それでも僕が一定の面倒くささ、固さにこだわる理由をお話します。

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理想の姿があるときの、人の行動パターン

理想の何かがあるとき、その人がどう動くか、どう思うかという辺りには大きく分けて、2種類あると思います。。

一つは、理想のものがあるなら自分で作れば良いじゃんって考え方。これからの社会は圧倒的にこのような人が増えると言われています。

創造ったって芸術的なことばかりではなく、実用的な物とか、日常的なことで言えば料理とか。もしくはガレージとか小屋とか中規模的なものも、個人のレベルで作るノウハウが需要に呼応して増えてきました。

だからこそ、作るまで、できるまでを見せるノウハウがこれからの情報の核となる。

美味しい料理のレストランや居酒屋の情報よりもクックパッドみたいなものが重宝されるようになる、みたいなことです。

出来たもの、完成品、買えるものを知っているかどうかというのは一昔前の情報の扱い方で、それを知り、発信できることはさほど大きな価値はない(探すかどうかの違いだけで、それほど難しいことじゃないから)のではないかと思うのです。

でも、そんな完成品が得られる情報が廃れる訳ではありません。

だって、理想があるとき、自分で作ろうなんて思わずに、迷いなく探す人も一定数、それも多分過半数以上の割合でいるからです。モノによって違うだろうけど。

普通に美味しいラーメン食べたいと思ったら、自分で作ろうと思う人もいれば、美味しいと評判のラーメン屋探す人もいて、言っちゃえば後者の方が普通ですよね。

僕だって美味しいラーメン食べたいと思ったら店を探しますわ。作ろうと思う人って、自分で作った方がうまいとか、早いって思うんだと思う。

だから作るって言う発想には、ある程度高い理想と、少なからずプライドみたいなものがないと至らないのではないでしょうか。

前回の記事のダメだしはこの辺りです。誰もがみんな創造に興味がある訳ではないし、そんなことで自信を得るとか言われても…という人が大半だと言うこと。

自分で作るとき

作家さんにも何人かいたはずです。なんかのインタビューで読んだだけだから誰と言われても忘れてしまったんだけど、「読みたい本が無かったから自分で書いた」という人。

こう言うと今世にある作品がつまらなくて、取るに足らなくて、仕方ないから自分で書いたっていう超上から目線みたいに見えるけど、実際ほんと純粋に読みたい本がなかったんだと思います。自分のツボにぴったりのヤツが。

いや全部読んでから言えよとかって言う人もいるかもしれないけど、だから、そういうの探すより自分で書いた方が早いな、理想はちゃんと頭の中にあるんだから、という話でしょう。

だから、何か理想があるとき、探すことに労力を使う人と、それなら作った方が早そうだと思う人がいる。

それにしても、こういう理想があるってことがすごいですよね。そしてその理想を再現できるってすごい。

こう見ると、やっぱり創造ってハードルが高くて、意思の高さとか確固とした理想みたいなものが必要だって印象だから、簡単にそんな創造の過程を人に求めるのはどうかなって思いますよね。

創造って誰でもできることではなくて、むしろ限られた一部分の人だけができることなんじゃないかって。

だからそんな難しいこと言ったってダメだよ、と言うことになるし、他人に高水準を求めるのはちょっと…ってことになると思います。

根っこは入り組んでる。愛でるのは見えてる部分だけ

結論を先に言えば、面倒臭いことを考えるのは僕が勝手にやってることで、僕だけがやれば良いことです。

創造とはこうあるべきだ、とか、創造をすることによる効用とかって言うのはあくまで裏話であって、根っこにあるテーマのようなものであって、やっぱり目的ではないのです。

見えている部分だけでなく、もっと根っこにあること、文脈や必然性というものは、掘れば出てくるって言うのが大事であって、このブログはいつかそういうコンテンツにもなるように考えています。

よって僕が考えなくてはならないのは、創造社会を体現したコミュニティに関わった人が、いつのまにか困難でしんどいはずの創造というプロセスに組み込まれてしまう仕組みです。

根っこのことなんて考えたことはないけど、みんな普通になったリンゴを食べて、ちょっと感動するとか、これどうしてこんなにおいしいんだろう(どうしてすっぱいんだろうでも良い)って疑問を抱いてしまうとか。

感動とか疑問が生まれた時点で人の頭は創造的なのです。

右と左をつなぐ歌

いわゆる何か作るとかって創造的なことに全く興味がないけれど、傍観者に徹するだけでも何故か何かを得てしまう。何かに気づいてしまう。そんな仕組み。

何言ってんだこいつって感じかもしれないけれど、何にしても見えない部分というものがあって、その部分は植物の根っこのように往々にして入り組んでいるもので、見える部分だけで立ってる訳じゃないということ。

だってそうじゃないと、とりあえず木を立ててみたって、花を土に刺してみたって、風が吹けば倒れるか飛んでくかするでしょう。

流行とか、とりあえずやるっていうのはそういう問題があります。

すぐやる人間

だけど見せるのはパッと見で見えるところだけで十分だし、花を愛でたり果実を食べるときに、それほど複雑な要求は必要ありません。

花はキレイなら良いし、果実もただただ美味しければ良いのです。

ただその綺麗さとか美味しさを伝えるためには、ある程度の技術が必要だと思う。

それはきっとシンプルなものだからこそ、技術が必要なのです。

具体的なアイディア

僕はめちゃくちゃ面倒くさいって記事のコメントのところに先にちょっと書いたんだけど、じゃあそういう仕組みってどんななの?と言えば、今のところは「お芝居」が面白そうだと思っています。

あくまで一例なのですが、今までのいくつかの記事で書いたことと、朝日町の特色を考え、さらに市町村が抱える問題をいかに解決するか、またお金とか人数とかって数字で価値を決める文明的な思考ではなく、「文化的な土台」として機能するためと考えると、なかなか現実的な発想だと思う。

その根拠はまたそのうち書くからいまのところ流しておいて欲しいんだけど、僕がこの朝日町で、今まで時間をかけて考えたことだからこそ真似しても真似できず、継ぎはぎのアイディアではあって行為や論理自体はありふれているけれどオリジナル性は保てるでしょう。

お芝居の何が良いって、人が関わる間口が広いところです。

役者、脚本、舞台、舞台装置、音響、照明、衣装など様々なものがリアルタイムで噛み合わなければ成り立たず、どちらかというとアナログな世界だと思っています。

そしてそれらの活動を支えようとする人がいれば、さらに広い間口が生まれる。創造に興味はなくても、関わってしまう。創作物に影響を与えてしまう。

完成した作品(売れる果実)だけではなく、その過程(文脈である芽、幹、枝葉)にもスポットライトを当てようというのがこのブログの今後のコンテンツであり、お芝居というのはそのための媒体?ね。

で、今の段階では頑丈な樹木を育てるための根っこのことを一人で考えているのです(誰かが掘ろうとしたときに出てくるコンテンツとして)。

僕は特に脚本とかストーリーの部分に興味があるから、誰かが考えた脚本やワンアイディアのストーリー、もしくはシチュエーション、設定みたいなものを元に、お芝居として成り立つものを考えるって楽しそう。

これは皆で相談しながらでもできるけど、何も朝日町にいなくたって関われる創造的な営みであって、ブログのような媒体があれば家にいたってできることで、興味がある人だけでやれば良いことでもあり、関わり方も負う役割も自由自在。

例えば書けないけど読みには自信あるという人もいれば、そういう風に関われば良いってことね。

紙幅が尽きてしまったのでかるーくの話しだけど、一つの「創作」の目的のもと、それぞれが関われる方法で関わることで、朝日町に触れられてしまう。

完成したものに価値を置くのではなく、完成するまでの苦しく相互に理解しようとするという創造的な営みを通してこの田舎町に関わってもらう。

本当にそんなことができるの?とか、それが何なの?と思う方は大勢いるでしょうが、今はこのワンアイディアを軸に、「伝える技術」、「まちおこしのパターン・ランゲージ」というコンテンツを作っていきたいと思っています。

創造のコミュニティ/広い間口を用意し、創造に興味がなくても創造的になれてしまう仕組み(完)

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