ネットは世間か、それとも神か。「恥の文化」と「罪の文化」について。

コミュニティ・メカニズム

たとえば、ある人の悪事はテレビのニュースよりも早くTwitterで広がってするっと化けの皮がはがされたりするし、善事もまた同じようにどこかの誰かの発言によって爆発的に取りざたされて、いっとき僕らの荒んだ心を温かくしたりする。

窮屈になったとか監視社会だ怖いこわいって感じることもあるかもしれないけれど、僕の狭い視野で見る限り、ネット社会ではちゃんと見当はずれの告発や歪んだ正義は返り討ちの形で打ちのめされて、手放しの賞賛ばかりでもなく、また創作は創作として楽しんだりするような、冷静な良識が育まれていると思う。

こんなことを考えているうち、「天網恢恢疎にして漏らさず」の天網ってネットのことだったのか、ついに人は「天網」を作ったのかって思ってちょっとした感動を覚えたのだけど、この言葉があるように、ネットがあろうとなかろうと神様は僕らの行いを見ていて、だからこそ滅多なことできねえよなって感覚はずっとあって、そのがこの世に張り巡らされた電子ネットワークによってはっきりと可視化されるようになったというだけの話だなと。

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日本人が持つ恥の文化

それにしても、僕たち日本人にとって神様が見てるって類の言葉はあるにしても、感覚としてはやはり無宗教な人が多いというだけあって、心から神の目を意識することは少ないよなと思う。

それよりは、誰かに知られたら恥ずかしい、誰かにバレたら厄介だという意識で僕らは悪事を働かない傾向があって(善意にも同じことが言える)、これを指して日本は「恥の文化」だと言われることがある、と聞いたことがあります。正しさや行いの判断基準は世間に委ねられているということ。

対して、あくまでイメージだけど日本人よりは信仰が厚いと思われる欧米は「罪の文化」だと言われる。こんなことをしたら神に裁かれるという意識、天が見ているから悪いことはしないどこうねって意識が強いのは欧米の方で、正しさや行いの判断基準は天(信心する自分の心)に委ねられている。

恥の意識を抑制力にする文化と、罪の意識を抑制力にする文化がある。

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曖昧な出典を糾弾する自分とあまり気にしない自分

こんなことをいつか勉強した気がするのだけど、これが一体どの本に書いてあったかどの先生から聞いた話なのかは一向思いだせないまま勢いで書いている。

こないだ

「結婚することになりました」から考える恩と愛と日本文化の話

という記事を書いて、そのときは『菊と刀』を参考にしたのだけど、この恥の文化とかいう話もその本に書いてあったんだったか。たぶんそう。たぶん。

この不確かさの中にあるちょっとした罪悪感の根拠はどこにあるだろうと考えると、やっぱり世間にあるように思う。

微かにでもアカデミックな話がしたいならきちんと出典を示せよとか、欧米と言ってるけどそれってざっくり英語話す外国くらいの感覚でしょ?具体的にどこの文化圏と比べてるの?とか、信仰の深さには個人差がありすぎるのでそれとお国柄を結び付けて考えるのはバカっぽいだとか、そりゃもう色々と世間様の声が頭の中に響いてくる。

しかしそんな声に負けているとブログなんて書けないのであるていど鈍感に、かつこうやって言い訳がましいことを言って心理的なクッションを設けているわけだけど、こうして厚顔無恥な振る舞いができるのも皮肉なことにやっぱり「恥の文化」に依るところが大きいと思う。

人になにか言われなきゃ別に良いの文化

そんな声(漠然とした世間の声)に負けているとブログなんて書けない、とは言ったけれど、この話をどこで聞いて誰が言ってたのかをちゃんとはっきりさせないと気持ち悪いっていう言わば内面が叫ぶ正しさに背く罪の意識よりは、「誰かになんか言われたらやだなあー」っていう恥の意識の方が強く、だからこそ「ちゃんとしたいなあ」とは思うものの、「でもこういうブログのちょっとした世間話程度でそんな論文書くみたいに書く人もいないよな」っていう意識があるから、僕は学生時代の教科書やらなにやらを引っ張り出すことなく書き続けている。

つまり、「恥の文化」の弱点は「世間がなにも言わなきゃ別に良い」のであって、純粋に自分の正義に則って行動が規定されるわけじゃないということ。

また、この恥の文化と罪の文化の話を聞いたときにすごく納得したのが、だから日本人は「みんなやってる」というのに弱いのだ、ということ。

行動の良しあしを規定する「世間」の判断力が鈍っていたり、ある人にとっての世間を構成するすごく小さなコミュニティ内で黙認されている状況において、僕らはすごく簡単に、驚くほど簡単に悪いことをする。

「みんなやってる」という事がらが大きな免罪符となって、そもそもあんまり罪の意識を持って動いてない僕らは本当にごく当たり前に、むしろ協調性を持って正しい行いをしていると言わんばかりの力強さで、悪いことをする。

そんな文化が世のお偉いさんの癒着とか天下りとか横領とかそういうのに繋がってるんだって言いたいところだけど、自分の身に引き寄せて考えてみても、環境が許せば物事の良しあしを判断する能力が落ちるというのは実感しているので断罪する資格はないように思う。

たぶん僕だって利害関係でがんじがらめになる代わりに偉くなれたり、不正が協調によって行われるような環境に放り込まれたら簡単にその文化に従い、悪びれもせず悪いことをするんだと思う。

ネットの世界は世間の目なんだろうか?それとも神の目なんだろうか?

それで、言わばここまでは前フリで、ここで本当に話したいのは、ネットが仮に天網の役割をするとしたら、それって世間の目なんだろうか?それとも神の目なんだろうか?ということ。

たぶん、どっちの要素も兼ね備えてるんだと思う。SNSなんかは小さなコミュニティでありながら全然閉鎖的ではないのだから自分の生活の人間関係の一形態(世間)とも言えるし、見知らぬ人に突然怒られたり褒められたりするのだからまるで天に見られているような感覚だってある。

ということは。

神の目と世間の目に行動の良しあしを規定されることに慣れている世代である僕らは隙のない行動倫理を持っていて、きっと多くの場合において、色々な環境において「良いヤツ」である可能性が高いと言えるかもしれない。

環境が許せば悪いことをしてしまったり、みんなやってるからと言って悪いことを悪いと感じなくなったりする可能性はもちろん十分にあるし、世代間の大きな倫理観の差は言うほどないと思うけれど、それでも僕らは比較的、ちょっと特別な目に見られていることを疑問に思わず、世間と神の目に見守られながら、同時に悪事を憎む世間であり、神の目でもあるっていう不思議な世界観もしくは宗教観みたいなのを持っていると思う。

だからこのまま順調に文明やネット文化が進めば、どこに出しても恥ずかしくない、天使のような善意に溢れた人が多勢を占める世の中になるのかもしれない。そういう未来を想像するとちょっと楽しい。

その上で、僕らは正しい必要もないし、悪は滅ぶべきものだとも思わないし、そもそも善悪なんて決めようがないのだけど、重要なのは何を目指すかであり、どうなりたいかであり、なんだろう。

仮に今恥ずかしいことだったり罪深いことをやっていたとしても、それを自覚できるかぎりきっと僕らは正しい。

「恥の文化」というからには、恥ずかしいことよりも恥知らずなことの方がずっと致命的なのかもしれない。

ネットは世間か、それとも神か。恥の文化と罪の文化について。(完)

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