価値の現在性。簡単に買おうとすると(売ろうとすると)劣化して腐るものについて。

朝日町にあるコミュニティスペース「旧佐藤医院」は、かつて無人の廃墟と化しつつあったところを、僕の母が発起人となり、有志と共に再生させた地域資源です。

今年も夏季から秋季にかけて広く開放しており、イベントなどで利用してくださる方や、レトロな雰囲気の建物内外を興味深く見てくださる方、母たちの功績を労ってくれる方などがたくさんいらっしゃいます。

朽ちかけていた建物を再生させ、少なくとも町民にとって誰も使っていなかった当時と比べると新たな価値資源として生まれ変わっただろうと思われる「旧佐藤医院」は、それなりの価値があるのだから、次はその価値を広める段階なのかもしれません。

多くの方に活用してもらって、より一層魅力的な場となるべく、力を注いでいく。

それはまあそうなのですが、しかし僕から見れば母にとってのあの建物の価値は多くの方に利用されるとか、広く認められるというところにはあまり関心がないように見えます。極端に言えばね。

与えられる価値はたかが知れているという感覚

みたいな記事を書く僕のフィルターを通すからそう見えるのかもしれないけれど、母にとってのあの建物の価値はまさに母自身の中にしかないのだと感じるのです。

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価値の現在性について

思い返してみれば、母が旧佐藤医院の復旧作業に精を出し始めたのは僕が大学に通ってる頃でした。

知らない間に大変そうなことに手を出してるなと思っていたのですが、年が進むにつれより精力的に活動していくように見えました。

仕事が休みの日は逃げるように作業に没頭しているように見えたし、実際、母が思う存分に頭と体を動かすことができる、ほとんど唯一の自由な場だったのだと思います。

もちろん、「建物としてもったいないから町の人が利用できるようになれば良い」という考えが発端だったのだろうし、そういうことを考えながら作業を進めたに違いありませんが、まだ誰も利用できない当時から、あの病院は母にとって価値のある場所だったわけです。

結果的に誰もが使えるコミュニティスペースとなり資源的な価値は高まったのかもしれませんが、母にとり、出来上がってしまった価値や誰かに与えられる価値はそれほど重要ではないのではないかと思います。

本人に聞いたわけではないので分からないし、言うなればここからは母を利用した僕の意見です。が、僕と母の思考は似ているので、大筋では間違っていないと思う。

それは、あらゆるものの価値というものは与えられたり教えられたりするものではなく、自分で手や頭を動かしながら見出すものなんじゃないか、ということ。

他ならぬ自分自身が作り出しながら得る価値の現在性こそを、旧佐藤医院では味わってほしい。

だって、価値の鮮度は決して高くなく、保存して誰かに渡そうとするとちょっと酸っぱくなってるみたいなところがあると思うし、コピーして配ろうとすると風味がなくなるみたいなところがあると思うから。

自分だけの価値を生み出す作業

そこにある価値をただ受け取るのではなく、自分で見出して値付けしてくれないだろうか。

だからこそ旧佐藤医院は使用料金がかかりませんし、どの部屋で何をするとも決めていません。どこでどういう風に楽しんで、どこをどうやって愛でて欲しいとは思いません。

どこにどんな価値を見出すかはそれぞれの感性や目的に委ねられているし、それは自分だけのもので構わない。

このブログでは、金曜日のコンテンツとして「旧佐藤医院」を舞台にした謎かけをする、という遊びをしています。

紹介するほどではないところを写真に撮って見せる手段とか、ちょっとした人間の気配を植え込むためとか色々目的はありますが、これは僕の遊びであって、究極的には他の誰かのものではありません。

僕はあの病院で歩き回ったりジッとしたりするとき、雰囲気のある建物なのだから何か不思議なことがあれば良いのにと考えていて、でもできるだけ建物内に変化を加えないようにそれを可視化する方法はないだろうかと考えているのです。

それを金曜のコンテンツにすると決めたから、苦しみながらもその創作過程を楽しんでいます。でもほんとうまくいかないこれ。

創造的な価値の伸びしろ、まちの。

価値があって、それを受け取るとか渡すというのは単純なサービスで、100%ではありませんが創造的な価値の伸びしろを奪ってしまうと思います。

でもこんな話はたしか以前にももっとクドクドと長ったらしく

コミュニティスペースの利用料金について/利用料ではなく成果物に価値を与えた方が良い

とか

コミュニティスペースのジレンマ/コミュニティスペースが目指す公共性とは 

とかで書いたのでもう良い。価値の形を定めないことで、価値観の多様性を守る的なことです。

それより本題と言ったらなんですが、これは「旧佐藤医院」に限らず町という単位で見ても同じだと思うという話。

移住ブームとかで田舎での生活に注目が集まり続けてる昨今ですが、「田舎での生活」というメディアに与えられた価値を求めて移住したとしても、よくて想像通りの価値しか得られないんじゃないかと思います。

田舎ならこういう生活ができるはずだ、田舎ならこういう人生をスタートできるはずだという風に考える人は多いんじゃないでしょうか。

海外の生活に一定のイメージがあるのと同じで、もちろん都会生活にも都会生活らしさというイメージがあるのと同じですが、そういったパッケージングされた価値を求めて、その通りに生きるのは、最大限に価値を享受できたとしてもお買い物です。

支払った労力に見合ったものが得られなければ不満にもなるだろうし、損をした気分にもなるでしょうから、こと人生の大きな転機である移住に関して言えば、消費者的な発想で動くのは危険なんじゃないかなと思うのです。価値は自分の中にあるという自信があると良いですよね。

自分だけの価値、生み出し放題

メディアでは、ことさらに田舎らしい生活とか、パッケージングされた田舎像を華やかに喧伝します。

それはそれぞれが見つけた価値だから絶対に嘘ではないんだけど、それは後から買えるものではなく、自分で見つけて、自分で作り上げるしかない価値です。

価値は自分で見出すしかないし、正真正銘の自分の価値なんてあらかじめヨソに用意してある訳がないです。

空白にこそ価値があり、ガチっと固まってないからこそ自分に見合った価値を作り出すことができる。ノートは白紙の方が何でも書けるのだから嬉しいし、粘土は適当に丸まっててくれればあとは自分で好きなようにやっちゃうからその方が都合良い、みたいなこと。

何もない田舎にいくらかパッケージングされた価値を与えるとしたらまさに「何もない」というところで、そりゃこれまでも「何もないのが良いところだ」なんて田舎では負け惜しみのように言われてきたけど、創造社会の気配が流れる昨今では、何もない町の「まちづくり」ってかなり余白が多くて、まじで自分だけの価値、生み出し放題だなって思います。

逆に価値を簡単に買おうとすると(売ろうとすると)、すぐに劣化して腐るんだろう。

価値の現在性。簡単に買おうとすると(売ろうとすると)劣化して腐るものについて。(完)

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