つながるカレー/コミュニケーションを「味わう」場所をつくるっていいな!

創造社会論っていうネット上で一般公開されている大学の講義を見て、そこで学んだことを最近はブログに記事にしています。

どの記事って言われても困るんだけど、例えば

町がある、何ができる?創造性を引き出す装置について

とか

まちおこしとパターン・ランゲージと明石家さんま/手段を目的に変えないために、徹底的に意識したいこと

とか、このあたりはほとんど講義を聞いて得たことを参考に書いています。自分でも何がヒントになってどの記事になってるのかよく分からない感じです。

一個の講義から得られることが多い。

今日見たのは第7回目の講義

毎回創造社会論の井庭先生とゲストスピーカーの先生が対談する形式なんだけど、7回目は加藤文俊先生。この先生の話しが面白い。というか僕がこのブログで言っている、創造で繋がるコミュニティは、加藤先生の研究とかなり近いところにあるのではないかなと思います。

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カレーキャラバン

加藤先生がどんな研究をしているのかと言うと、例えばある町でカレーを作るとき、そこに集まる人たち(コミュニティ)に何が起きるのかという実践的研究に取り組まれているそうです。

カレーキャラバンっていう活動らしいのですが

『つながるカレー コミュニケーションを「味わう」場所をつくる』

つながるカレー コミュニケーションを「味わう」場所をつくる

っていう本もあります。未読。

で、カレーを作る、食べるを通して何がそこに集まる人に起こるのか。

これは講義中の加藤先生の言っていたことを、ちょっと長いかもだけどそのまま引用しようと思います。

いくつかのポイントがあって、完璧にゲリラ的にではないんだけど、いきなりどこかの、この場合(講義中は実際の活動のスライド写真を見ている)は映画館の駐車場なんだけど、に、やってきてカレーを作る。

そうすると、それが言ってみれば、ある種の触媒というかなんか知らないけど話題のタネになって、人が寄ってくる。あとはタダで配るとか、色々なエッセンスがあるんだけど、それをやってると新しい、今まで僕たちが背負っていた肩書きとか、今日も多分後半あると思うんですけど、これって、これで加藤って研究してるんすかみたいな話も含めて、僕たちがある肩書きなり社会的な役割を与えられていて、それを背負いながら暮らしているときに、「役割期待」という言葉が社会学にはあるんだけど、ある役割に対してこうしてないと俺はおかしいなっていう、常に自分を自己評価しながら生きる訳なんだけど、カレーを作るおじさん、カレーグループの一人になってるとそういうものから解放されるんですよ。

説明いらない、見りゃ分かんだろみたいな、まずけりゃマズイって言われるだけの話しだから、非常に浄化されるんですよね。それはすごく面白い。

多分コミュニティの人も一緒で、どこどこの誰々とか、町内会のなんとかとか、商店街のなんとかみたいな肩書き、役割をコミュニティにおける役割を背負いながら生きてるんだけど、カレーに並び、カレーを食べるほんの一時間なり二時間は、なんかそれがふっと消えるみたいなところが、いやあなんかこれはすごい面白い。

役割を離れる快感

ポイントは二つです。

①役割から解放される

②浄化

前回の、田舎に全然関係ないから田舎に憧れても田舎に行きようがない

とか

行ってないのに行ける町づくり

あたりで書いたのですが、人はいつも何らかの役割を背負っています。

「その場にいる」「ただ存在している」というだけでは何故か社会では認められず、どこの誰で、何者なのかという役割を僕らはいつも持ち歩いています。

初対面であれば仕事を聞かれる、関係を聞かれる(田舎だったら誰々ちゃんの息子とか)。

ところが加藤先生の実験で言うところの、「カレーを作ってみんなで食べる」という目的の上では、しかしそんな肩書きは必要ないというか、誰が作ったカレーだから食べるとかそういうこともないし、カレーを作ってることがその場の全てだから、あんまり関係ないのだと思います。

そういう風な、「何者でもない自分」のまま居られる場所って、加藤先生が言っていたように、面白くて、「浄化」されるのだと思います。

加藤先生のお話の中では明らかに「浄化」という言葉だけ浮いて見えますが、それはまさにそうとしか言いようがない、実感に伴う言葉だったからでしょう。

普通、社会的な役割や肩書がないと、人は不安になります。自分自身もそうだし、そういう人を見る他者もそう。何者か分からない人を見ると不安になるのです。

不安すぎて、何者でもない人のことすら「ニート」とかって肩書きで呼ばなきゃ気がすまないくらい。

なぜ働いてないくらいで自己が揺らぐのか。

そんなのは分からないけど、人間はそれだけ社会的な動物だということなのでしょうか。

だから普通は役割を背負わなきゃ不安だから、別の役割をこさえます。消費者とか。

でもカレーキャラバンは無料だから、そういう役割もダメ。ありのままの自分でただカレーを作って、カレーを食うのです。

そんなことが許される環境だということです。これは「社会」では数少ない安心の場です。

じゃあ創造で繋がるコミュニティは?

加藤先生はカレーを作るけれど、僕は創造を通してコミュニティを作りたいと思っています。

カレーも創造物かもしれないけれど、僕のはもっと文芸的な、より実益のないものを目指している。最終的には極小の小屋と極小の脚本を用意して、少ないキャスト、少ない観客で見て完結する芝居を作っては壊し、作っては壊しということを、それこそややゲリラ的にやるのが理想。

何故芝居かっていうと、色々意味はあるんだけど、芝居のアナログ間、ライブ感は人が関われる間口が広いから。

何度か書いてるんだけど、例えば小屋を作るならもちろん釘を一本打つだけでも創造に関わったことになるし、直接手を加えなくても小屋のコンセプトを考えるだけでも良い。

脚本だって、何も朝日町で作るからと言って朝日町に来なきゃいけない訳じゃなくて、自分ちで書いて僕にメールか何かで送ってくれればオーケー。良いですね面白いですね、惜しい気がするからもっとこうしましょうみたいなやり取りがあったりなかったりして、それだけで十分創造で繋がるコミュ二ティになります。

そしてもちろん、カレーは食べるだけでコミュニティの一員になれるっていうところを考えると、小さなお芝居だって観客ありきで完成するとすれば「見てるだけで創造に関わる」ことになります。この辺はピンと来ない人もいると思うけど、詳しいことはまた後日書きます。

そして更に言えば、このブログとここから派生するブログがコミュニケーションツールになったりする、いわば「創作の土台」になっていく予定ですから、今これを読んでいるあなたは既に若干僕の創作物を見ているということになります。

まだ途中で何作ってるのか分からないけど、何となく最近は情報を開示し始めたから、料理で言えばあーなんかキッチンでゴソゴソしてるなーくらいの段階には来てるのではないかなと思います。

子供だったらその時点で、「何作ってんの?」って聞いてきますよね多分。

そんなノリで「今何を作っているのか」と聞かれたら「みんなで物語を作るための装置を作ってる」と僕は答えます。

つながるカレー/コミュニケーションを「味わう」場所をつくるっていいな!(完)

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