コミュニティスペースのジレンマ/コミュニティスペースが目指す公共性とは

まちづくり界隈では「コミュニティスペース作り」って関心が高いものなんじゃないかなって思います。

実際に色々なところで素晴らしいコミュニティスペースが運営されていたり、今まさに制作中というところもあるようです。

そんなコミュニティスペースに何となく共通するコンセプトというか期待される概念として、「まるで自分の部屋のように」とか「空間の使い方は自分次第」と言ったようなものがあると思います。

少し硬く言えば、「主体性を持った、個人の裁量が許されたスペースをシェアする」という発想、個を尊重した上で「ゆるく繋がろう」という意志があるように見えます。

僕が地元でボランティアスタッフをしている「旧佐藤医院」も同じで、コミュニティスペースと言うからには多くの人に、そして気軽に社交場として利用してもらいたいという気持ちがある一方、それぞれが「自分だけの空間」を作ってほしいという気持ちがあります。

これは葛藤です。矛盾した感情と言っても良いでしょう。

「多くの人に利用して欲しいけれど、利用者には自分(たち)だけの贅沢な空間を味わってほしい」

公共物として広く開放すべきか、完全会員制などにして狭い範囲にカギを渡すべきか。

コミュニティスペース作りに興味がある方の中には、ここで悩んだり苦しんだりする方もいるのではないでしょうか。

なぜ苦しむのかと言うと、おそらく「両方捨てられない」というのが一番しっくりくるからでしょう。それはどうしてなのか。感覚では分かっているけど言語化はしていない段階という方も多いはず。

よって今日の記事では絶対長くなるけど「コミュニティスペースにおける公共性とは何か」について少し腹を据えて考えてみたいと思います。

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コミュニティスペースはただの公共の施設ではない

まずコミュニティスペース、というか「旧佐藤医院」では、という話になってしまうけれど、多くの人に、気軽に、そして自由に利用してもらいたいとは言うものの、いわゆる「公共の施設」とは性質が異なるという側面がある。

理想を語れば、コミュニティスペースは利用者にとって、公共の施設よりも自由度が高く、居心地が良く、使いやすい場所でなければならないと思っている。

「公共の施設を越えた公共性」が欲しいわけです。

なぜかと言うと、冒頭で書いた、「自分だけの空間」を作ってもらうためには、個人に出来る限りの裁量を委ねたいからです。

例えばの話ですが、もし「ここでしばらく絵を描きたいんだ」という人がいたら、できる限りご協力します。本格的に大作を描こうとすれば、作業中は画材などを収容する必要もあると思いますが、これは普通の公共スペースでは難しいですよね。

誰かに絵を描いてもらうためには、公共より自由でなければ。

個人にある程度の裁量を委ねたいと言ったときに、いわゆる「公共のルール」を適応してしまうのは必ずしも上手なやり方であるとは限りません。

なぜなら、公共物は「自分のモノである」という感覚が希薄なせいか、ややもすると厳しい制限や徹底した管理が必要になることがあるからです。

田舎ではあまりないかもしれませんが、「この公園は夜8時から朝6時まで閉鎖されます」ということもあるし、「犬の糞は持ち帰って!」と看板を立てかけ、それでも清掃を頼まなければならなかったり、管理や制限なしでは公共性を維持できない側面がある。

これはコミュニティスペースを運営する上で、望ましいことではありません。

なぜなら、制限や管理を徹底しなければ立ち行かない場所では、自由度が下がり、結果的に用途の制限に繋がるからです。

旧佐藤医院のような、予算も人員も限られているところでは特に。

このスペースは一組2時間までしか使えません。ここは会議で使ってください、この和室はお茶会をすることになっています。ゴミは持ち帰ってください。どんどんルールが増えていきます。

それはつまり使う人が限られるということになるから、「公共物」とすることで反対に、「多くの人に利用してもらう」という目的の達成を損ねる結果に繋がる、かもしれない。

そうなる保証はないけど、そうなる懸念がある。

コミュニティスペースの役割

ではどうして、コミュニティスペースは(旧佐藤医院は)できるだけ多くの人に利用してもらいたいのでしょうか。利用者の自由度とか裁量を大事にしたいなら、やっぱり初めから特定の人にだけ使えるようにすればよいのでは?

それは、ここが「コミュニティスペース」というだけあって、様々な価値観を持つコミュニティが行き交う、「価値観の交差点」として機能して欲しいと思っているからです。

狭い見識で言うことですが、コミュニティスペースってだいたいがそうなんじゃないかな。

いわゆる「ゆるい繋がり」というものを生み出す装置として、コミュニティスペースがあると良いと思っている。

それはどうしてかと言うと、これはまた難しい話になってしまうけど、そのような場所がなければ、多分田舎は違うコミュニティ同士が交流する機会なんてほとんどないから。

交流というのは一緒に何かするとか、何か会話をするということではなくて、「同じ空間にいる」ということ自体があまりないということ。

これは異論があるだろうけど、少なくとも僕にはそう見える。

田舎に住んでいて(僕があまり外に出ないってのはあるが)、あまり自分と違う年代、生活スタイルを持つ人と同じ空間にいるということはありません。感覚の問題かもしれないけど、都会よりも田舎の方が住み分けは厳格なような気がする。

「ゆるい繋がり」とか「縁」とかって言葉は華美にパッケージングされた言葉のような気がして気安く使うのは僕はあまり好きではないけれど、異なる人同士がコミュニケーションを取ることの利点は認めざるを得ません。

一方にとっては大問題でも、一方にとっては朝飯前のことがけっこうあるから、違う人同士がコミュニケートできると解決することも多いんですよね。

例えば僕が今から自分で野菜を作ろうと思ったらすごい勉強しなきゃだけど、お年寄りに聞いたらいとも簡単にやりおおせてしまうとか、反対にパソコンとかスマホみたいな文明の利器を使いこなすことにおいては、お年寄りはちんぷんかんぷんでも、僕らにとっては日常、とか。

くどくど説明するまでもなく、「違う」というのはけっこう喜ばしいことでもあるのです。

価値観の牙城としてのコミュニティスペース

では、多様な性質の個人やコミュニティが入り乱れながらも、一定以上の公共性、つまり利用者みんなが心地よく使える場にするためにはどうすれば良いか。

「自分だけの空間」を作るのは、人が増えれば増えるだけ困難です。みんなが平等に心地よく過ごすための空間を目指すなら、「公共のルール」を適用するしかありません。

しかしそれでは、「自分だけの空間作り」に支障が出る。

堂々巡りの葛藤地獄です。

だからコミュニティスペースには独自のルールが必要なんじゃないか、とか思います。

そのルールというのが場自体(コミュニティスペースそのもの)なのではないでしょうか。

どういうことか。

まず、多様な性質の個人やコミュニティが入り乱れると聞いて、特に内向的な僕なんかがすぐさま不安に思う点は、「どうしても合わない人がいたらどうしよう…」「自分の常識が全く通じない人がいたらどうしよう…」という点です。

文化や考え方の違いはだいたいの場合面白いだけなんだけど、世の中にはどうしても相容れない人種というものがいるものなのではないでしょうか(絶対に分かり合えないというわけではなく、互いに興味を抱けないと言うような)。いわゆる価値観が合わないという。

もちろんもっと端的に、モノを壊したり場を汚したりすることに抵抗がない人、面白みを感じる人というのも困る。

そういう意味で、公共の場のルールというのは個人の価値観を持ち込ませないようにデザインされているのでしょう。ムラをなくすことで想定外を減らし、最低限の管理で済むようにしている。

しかしそれでは先ほど書いたように、個人の自由度が下がります。個性を均すことは本意ではない。

だから間口を広くしながらも、ある程度最低ラインの共通属性は持っておきたい。そう考えるのが僕に限らず、人間すべてに共通する防衛本能なのではないでしょうか。

このとき、やはり「旧佐藤医院は」という話になってしまうけれど、建物自体が独特なので、価値観の牙城として働くことになります。

どういうことかと言うと、パッと見「旧佐藤医院」の外観を見て、「うわ中見てみたい」と感じる人もいれば、全く見向きもしない人もいる、ということ。結構はっきり興味ある人とない人で別れるのです。

わざわざ遠くから来てくれる人もいれば、近くにいるのに一度も来たことがないひともいる。

建物の中を見て、「ドアノブが可愛い」とか装飾的な部分を面白く思う人や「間取りや建物自体の造り」に注目する人、「雰囲気」に何か感じる人、など色々いるけれど、少なくとも旧佐藤医院を「面白い、綺麗、可愛い、すごい」と思ってくれる人でなければ、あそこに足を踏み入れよう、ましてや利用しようとはなかなか思わないはず。

そしてそういう強烈な建物の個性に価値を感じるかどうかが、最低限の共通属性として働く。

どこに注目するかは人によって違うかもしれないけれど、「この建物は価値がある」と感じてくれる人が自然に集まることになるから、安心してスペースを委ねられるし、何と言うかお互いに建物の使い方として「それはないよね」って部分がある程度一致するから、見えないルールみたいなのが生まれ、まさかの不愉快に出会う確率は減る。

そのあたりをまったく解さない、つまりどうしても相いれない人であれば、極端な話、「ここ自由に使っていいんなら、僕お金出すんで一回取り壊して全面リフォームしませんか。その方がきっとたくさんの人が使えるし、みんな居心地良いですよ」って言うかもしれないですもんね。

いやそれはないです。それじゃただの公共施設なので、そういうのは足りてるんで、というようなことをわざわざ言わなくて済むようにしたいというのが正直なところで、コミュニティスペース独自のルールを作るためにも、場の個性というものは維持したいものです。

コミュニティとか交流ってなんかウザったい気配しないか。

ここまでの話でもういくつか疑問というか腑に落ちないところが浮かびます。

まず、コミュニティスペースでは必ず誰かとコミュニケーションを取らなければならないのか。

もしくは、コミュニティスペースでは、何か意義のあるものが生み出されなければならないのか。

確かにコミュニティスペースには異なった人同士の交流が生まれたり、そこから何か新たなモノが生まれる可能性はあります。理想のコミュニティスペースには、そのような機能が備わっているからこそ、まちづくりを目論む田舎なんかでは関心が高いのでしょう。

しかし、正しいことがいつも正しいとは限りません。人との交流は素晴らしいかもしれないけれど、いつも求められるものではない。僕のような内気な人間には特に。

コミュニティスペースにはコミュニケーションが生まれたり、新しいアイデアが生まれたり、団結力とかなんか色々生まれたりという可能性があるかもしれないしそれは良いことかもしれないけれど、そういう色々を「しんどい」と感じる人はたくさんいるはず。

僕だってそうです。有意義なこと、正しいこと、素晴らしいこと、色々価値のある事は世の中には溢れているけれど、だからって実際に行動に起こすか?と言われれば、凡人の僕はほとんどのことはしない。

ちょっと話は逸れるけれど関連記事です↓

羽川翼の話をしよう/「完全に正しい」という異常な個性について

僕は札幌の地下歩行空間でいつも募集してる献血だってしたことないし(理由はありません、ただしないだけ)、血どころか寄付とかだって多額のものはしたことない、それどころかよく噛んで食べるとか、軽い運動をするとか、自分のことでさえやれば良いと分かってることのほとんどことができない。

有意義なこと、正しいことをするって基本的に「しんどい」です。それなりにエネルギーとか覚悟がいります。自分とは異質な人との交流は刺激になるし見聞も広がるし面白いことかもしれないけれど、少なくとも僕は「疲れ」の方が勝って、これなら一人で本読んでた方が良いわってなることが多い。

コミュニティスペースがいかに意義のあるものなのか、素晴らしいものなのかを説明することは、人を寄り付かせなくする効果はあっても人を惹きつける力はないと言っても言い過ぎではありません。

僕はこんな、意義とか独自のルールとか面倒な記事を書くべきではない、とは思います。

しかし、あえてこのような記事を書くのはどうしてかというと、人にコミュニティスペースを利用するにあたってのモラルやそのものの意義を押し付けたい訳でもなんでもなく、実はそういう善性に感じる一種のウザったさを払拭したいから、もっと敷居を下げたいからなのです。

運営する側は場を保つためにこういう面倒なことを考えるけど、それは利用する方の裁量を守るためなんですよ、気持ちよく好きに使ってもらいたい、という話をしたいのです。

コミュニティスペースはみんなのためではなく、自分のために場を大切にして欲しい

コミュニティスペース(というか旧佐藤医院)は、いわゆる公共の建物とは少し性質が違います。

公共のスペースでは普通みんなのために場を大切にしますが、コミュニティスペースでは自分のために場を大切にして欲しい。

そもそもこの辺りに疑問を感じる人もいるでしょう。

なんで「自分だけの空間を作ってほしい」なんて言うの?そんなの欲しけりゃ自分の部屋にいりゃ良いじゃん。

確かにその通りなんですよね。本当に自分だけの空間が欲しいなら、部屋にいれば良い。でもそういうことじゃないってのも分かるはず。一人が良いけど独りは嫌ってあるでしょう。

しかしみんなに自分の空間を作ってほしいって言うのは、「場そのものを守るため」という要素が大きかったりする。

みんな他人のものより自分のものの方が大事に思うのだから「自分だけの空間」を作ってもらうことは、それだけ自動的に場が保たれるということでもあるのです。

場の個性がコミュニティスペースに独特のルールの一旦を担っているのだとしたら、場を維持することこそがまず大事です。

しかしそれ以上に、コミュニティスペースは「公の場」ではなく、あくまで「いろいろな個が集まる場」であるようにデザインされるべきだと僕は思う。

なぜなら、やはりこれも場優先の考え方かもしれないけれど、個性的なコミュニティスペースを支えるのは、やはり漠然とした人ではなく、個性だと思うからです。

コミュニティスペースの個性とは、「旧佐藤医院」で言えば建物自体が放つ重厚な雰囲気とか、細かく区切られた間取りとか、元病院という出自?とか、見た目、印象、全部。

あそこはけっこうな人が入れるけれど、普通に一家族が住んでいた家ですし、そもそも基本的にプライベートな空間を作る方が適していると思います。あの建物の雰囲気で、人に迷惑をかけるほど騒いだりするのは困難なんじゃないか。

一方、個人の個性は言うまでもなく多様です。使い方が個人の裁量に委ねられているというのはまさに個性を発揮するための最低限の条件です。感覚で言えば、旧佐藤医院はテンプレート素材です。それをそれぞれの利用法でデザインできるということ。

ある人にとってそこはアトリエで、ある人にとってそこはゲームをする部屋、仕事部屋、子どもと遊ぶ部屋、などなど、その空間で何をするのが相応しいかをそれぞれが考えることで、そこに多様で個人的なデザインが生まれる。

デザインの数だけそのコミュニティスペースの価値も多様になり、その場を大切にする人が増えるから、できるだけ多くの人に利用してもらいたいですよね。

これが、間口を広げておきたい本当の理由で、人との交流とかはもちろん本心だけどやはり建前的なものだと僕は思います。少なくとも旧佐藤医院は内向的な人にほど好かれそうだし、一人が良いけど独りは嫌な人に好かれる物件だと思う。

「旧佐藤医院を価値のある建物だと感じるという最低限の共通属性」で結ばれた人同士がその場を利用することになるから極端な逸脱はないはずだし、自分の空間を尊重するということはイコールで場を尊重するということになるから、結果的にコミュニティスペースの公共性、つまりテンプレート素材としての旧佐藤医院は守られるということになる。

ややこしくなっちゃったけど簡単に言えば、「個人の個性」を尊重することで「建物の個性」が保たれ、「建物の個性」を尊重することで「個人の個性」が保たれるという相互作用が働くのです。

コミュニティスペースはいつ出来上がるのか

コミュニティスペースは、ただそこにあるだけではコミュニティスペースになりません。

コミュニティスペースという建物がある訳ではないし、公共の、誰でも使える場というだけではなんだか足りないのです。

コミュニティスペースとは何か、というものは後付けの概念であり、言うなればそれぞれのコミュニティスペースにそれぞれの在り方がある。そういう独特さを持つコミュニティスペースとして利用者の方に認識してもらわなければ、そこは成り立たちません。

旧佐藤医院は清掃をしたから人が入れるようになって、利用できるようになったというだけ。

だから旧佐藤医院というコミュニティスペースは、これから利用者と共に作り上げていくという側面があるのです。

コミュニティスペースの個性が利用者の個性を引き出し、コミュニティスペースの個性が利用者の個性を守る。

しかし、そこで何か責任感やら義務感のような暑苦しいものを抱く必要はありません。

建物が個性的であるが故に、自然にそのコミュニティスペース(旧佐藤医院)に惹かれた人が、それぞれ自分本意に利用することで保たれ、デザインされ、多様な価値を獲得する場として機能するのです。

だから、コミュニティスペースだからと言って、誰かとコミュニケーションを取らなければならない訳ではないし、自分だけの空間とは言っても一人になる必要もない。使い方自体にルールは特にないのです。

ただあるとすれば、利用者がお互いの個性と、そんな個性を飲み込むコミュニティスペースの個性を尊重するということだけ。

その場を大切にするという共通の価値観を持った人、最低限の価値観で繋がったコミュニティが自然に生まれるから「コミュニティスペース」と呼ばれるのかなと僕は考えます。

つまり、コミュニティスペースは一般の公共物のようにフラットであることではなく、個性的で癖のあるところにこそ核があるということなのですね。

コミュニティスペースには、「たくさんの人に使ってもらいたいけど、それぞれが自分の空間を作ってもらいたい」というジレンマがあります。

しかし、それは矛盾する気持ちではなく、コミュニティスペースを利用者それぞれの満足度を高め、場の価値を高めるために必要なこと。

みんなが自然にそこを大切にするという「公共を越えた公共の価値」を作るためのもの。

長いのに最後まで読んでくれてありがとうございました!

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コミュニティスペースのジレンマ/コミュニティスペースが目指す公共性とは(完)

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