多様性という言葉を聞くと、たいていの人は生物学的な感じで言う「多様性」よりもっと身近で素朴な、「世の中には色んな人がいる」という程度の意味で考えると思う。
僕とあなたは違う。あの人とこの人も違う。
十人十色で、みんな違ってみんな良い。
そんな風に考えることが多いと思うし、この認識は絶対に間違っていないんだけど
という記事を書いてるうちに、もしかして多様性ってもっと複雑なんじゃないかって思ったので、はっきり何が書きたいか分からないしなんなら書きたいことはこの太字の部分だけなんだけど、もうちょっと考えるために書いてみようと思います。
比較対象があるから、違いが分かる
僕が言ってるのは、多様性って言うのは自分の外側にあるのではなく、内側にあるんじゃないかってことかもしれない。
極端なことを言えば、多様性を意識できるのは、自分の中にそれだけの目があるからで、本当はこう客観的に地球を見ると、多様性なんて無いと言っても良いんじゃないか。
世の中色々な人がいるな、この人は僕と違うな、変なこと考える人がいるな、って思えるのは、それだけの違いを見る目があるからで、自分を客観視する能力があるからなんじゃないか。
なんかむずかしい話だ。
んー、この人は僕と違うと考えられるのは、つまり相対的に、両者を比べて考えるのは、そもそも比べようと思わなきゃできないことです。
じゃあなんで比べようと思うかって言うと、根本には「共通の何か」があると信じてるからだろう。
色んな人がいるったって人の中にはエラ呼吸をする人もいるということはない訳で、実際にエラ呼吸をする人がいたら否応なく違いを見せつけられる訳だけど、そんな生き物として違うとかそういうことはない訳だから、そういう意味で僕らが素朴に使う意味での多様性なんかなくて、あったとしても誤差レベルのことで、その誤差に興味も関心も抱けなければ、僕らは違いなんか認めない、んじゃないか。
関心を寄せないものに多様性を見出すのは難しい
例えば、もっと幼い頃、僕はそれほど「自然」に関心がなかったように思う。
草木は草木だった。雲は雲だし、石は石だった。
だから絵を描くと、自然はざっくり緑、石はざっくり灰色。
それは認知能力が乏しかったということも技術がなかったということもできるけど、そういう風にしか見てなかったってことなんだろう結局は。
なんかそれぞれ違うって見れば分かるんだけど、その違いに積極的に関心を寄せなかった。
これは多分、人間に対しても同じ。
幼い頃、いやこれは正直今も、人は人で、そりゃ色々違いはあることは知ってるけど、例えば駅の中でうごめく群衆を見て、おおー色んな人がいるなあなんて絶対に思わない。
人多いなあって思うだけ。
これがコスプレ大会の会場だったら色んな人がいるなあって思うかも。コスプレという共通点があるから比べる気になる、のかなあ。
たまたま自分に近く、自分が関心を寄せた人に対して、もしかしたらただの便宜のためなのか、自分の縄張りを守るためなのか、もしくは利用するためなのか分からないけど、もっと積極的な違いを見出しはじめる。
自分の中に多様性がある。
多様性を認めるのは自分の可能性を認めること
一般的に視野が狭いと言われる人は、他人が自分と同じだと考える傾向があると思う。
「自分の尺度でモノを考える」という人、普通は嫌悪感を伴って語られるその性質。
それはそれだけ区別するための自分が少なく、比較サンプルが頭の中に無く、まだ子供が草木を描くようなレベルで人を見るから、緑じゃない!おかしい!となるのかもしれない。
ほら世の中にはこんなに色々な人がいるんですよ。十人十色なんですよと言っても、自分の中にそれだけの繊細な色使いを判別する機能も、そこに労力を費やそうとする程度の関心もなければ分かるはずはない。
ただ、別に他人に対して多様性を見出せない人のことをどうこう言いたいのではなくて、だから何が言いたいのかというと結局、多様性は自分の中にあるんじゃないかってこと。
僕らが「認識する」という意味において多様性はそもそもなく、多様性を見出そうとしたときにポロポロと零れ落ちるように生まれるんじゃないか。
世の中は多様だ。
まだ自分では考えられない領域がある。
ありえないことなんてない。
美しいところも、醜いところもある。
馬鹿なところも、賢いところもある。
好きなところも、嫌いなところもある。
それは全部自分の頭の中の話で、自分の可能性なのかもしれない。
だから多様性を認めるのは若干しんどい。でも可能性はないよりあった方が良い。
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