なんで多様性のある社会を作る必要があるの?

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なんで多様性のある社会を作る必要があるの?

という僕の中にある疑問について考えました。

自分は多様性を受け入れる態度を持ち合わせているか?を点検する具体的な方法

という記事を書きましたが、やはりこの多様性のある社会についても、感情面と理屈面は分けて考えなきゃなと思うのです。

なんか、感情だけで言ったら最低なようだけど、僕に無関係なところでは何が起こっていても特に何も感じません。

どこかで誰かが差別を受けていても、マイノリティな誰かが肩身の狭い思いをしていても、僕には関係がない。これは素直な僕の感情です。どこかの誰かが今も苦しんでいることは想像できても、その人のために泣くことはできません。感受性の限界です。

僕の感情は、僕か僕の身近なところに起きることでしか基本的には動かない。

世の中に差別があること、世の中にいるマイノリティな誰かが生きにくいこと、それは問題だと思うし、ときには悲しくなることもある。思うが、それはどちらかと言えば理屈で考えたことで、感情で考えてない。

漠然とした世の中の遣り切れなさに悲しくなるときは、単純に、僕のメンタルが不調というだけ。

そりゃ良くないことだと理屈で分かる、というのがデフォルト。

じゃあその理屈について、どれだけドライに考えられるだろう。どうして社会には多様性が必要だと言われるのか、どうして多様性のある社会を志す人が増えているのか。

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多様性のある社会の方がチャンスが多い

ドライに考えると言えば、しばしばビジネス的に考えるということでもあると思う。

例えば僕は小説を書くし、小説家として活躍する人(小説を書いて生きていきたい、小説を書くことしかできない人)が健やかに生きていける世の中になれば良いと思ってます。

小説という分野に矮小化して多様性を語った方が分かりやすいと思うので、あえて小説という狭い世界を例に説明しますね。

「小説」というジャンル一つとっても、多様性があるのと無いのとでは運命が大きく異なると思います。

小説と一口に言っても様々です。純文学、大衆文学、ライトノベル、ケータイ小説、140字小説、チャットノベルなどなど、分けようと思えばすごく細かく分けることができるし、年を経るにつれ、小説の枠組みの中に入るものは増えているような。

それぞれ読者が違いますし、書き手の趣味嗜好も違うと思います。それぞれが自分が参入できるところから「小説」というジャンルに参入するわけです。

純文学を好む人でケータイ小説を読まないという人は多かろうと思うし、大衆小説を好む人は純文学を毛嫌いしたりするかもしれない。

だけど小説というジャンルに足を踏み入れていることにかわりはない。また、それらが映画化したり、ドラマ化、アニメ化することで、「小説」に感心がない層にとっても、間接的に小説と関わる機会となる。

小説は純文学しか認めない(多様性を認めない)、ということは、引いてはその分野の発展を阻害する結果になる。

だから市場にとって、多様性はあった方が好ましい。

多様性が積極的に受け入れられすぎる状況では「小説のレベルが下がる」というような意見が出ることもあるでしょうが、市場にとってはノイズでしかありませんし、見ようによっては、購買層が縮小していくことこそがレベルの低下だったりするのですよね。

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自分もまたマイノリティだということに気付き、最終的には独りなのだと気付く

市場がうんたらという話はまあ分かりきってるところ、という気がしますし、僕が市場を語るのは自分でなんだか違和感があります(市場原理みたいなのに疎いし)。

それより強く思うのは、自分もまたマイノリティだということに気付き、最終的には独りなのだと気付く人が増えたから、多様性へ寛容が社会に必要だと訴える人が増えたのではないかということです。

なんかね、多様性がどうこうって言ってるのって、多分今の20代から40代の人なんじゃないのかなあとか思うんですよね。なんの根拠もないしただの肌感覚だけど。

多様性のある社会の実現に対して、義憤なり信念なりを掲げて意見を発信するのは、やはり社会において「自分ってなに?」という問いに日々向き合わざるを得ない人だと思うんですよね。

それってまだ自分はこうだ!ってのがハッキリしてない若い世代が多いんじゃないかなと。

なんのために生まれて、何をして生きるのか

答えられないままおわる そんなのは嫌だ

何が君の幸せ 何をして喜ぶ

分からないまま終わる そんなのは嫌だ

『アンパンマンマーチ』より 

小さい頃に聞いたアンパンマンマーチのなんてことない一節が、重要な人生の問いとなるとき。

考えていけばいくほど、自分が研ぎ澄まされていきます。

少なくとも自分が自分であることに対する意識は研ぎ澄まされて、細い針の先端に立っているような気分になる。自分にこだわればこだわるほど一人ぼっちになっていく。

そんな風にして生きる無敵感と孤独感を持って僕らは生きていくことになる。

それがどうして多様性の必要という発想になるのか。

天上天下唯我独尊と多様性

自分が研ぎ澄まされた一点に過ぎないと思えばこそ、誰かの自分と同じような小さな足場もおろそかにできないことに気付くんじゃないでしょうか。

「天上天下唯我独尊」なんて気分にもなりますよね。なんないですかね。

言葉の意味は大谷大学のエッセイのページが分かりやすかったですね。

しばしば若い世代を「悟り世代」と呼ぶことがあるけれど(平成生まれくらいに使われるイメージ)、よく言ったもんです。

ちょっと荒く、しかも僕の解釈も加えて言えば、「誰の足も引っ張らずにただただてめえの人生を生きろよ」ってところだと思う。

お前の足場は誰にも脅かされないし、他の誰かの足場も突き崩すことはできない。それをしたところで何にもなんない。そんなのお前の生きる意味じゃない。無益どころか自分の足場さえ損ねかねない。

現実には、社会があるし、他人がいるし、独りは寂しいし、承認欲求みたいないかんともしがたいものがあるし、お釈迦様みたいに達観して生きるばかりにはいかない。放っておけ、関わるなじゃあまりに味気ない。

そうなれば、お互いこの衆生で袖振り合った縁ってことで、へえあなたはそういう感じなんですかーって興味を持ったりなんだり、ときには応援したりした方が有益だろう。お互い様なんだから。

そしてそれは誰かの独特な宇宙や哲学を受け取ろうとする態度でもあるから、メッセージを発する理由にもなる。健全なコミュニケーションの肯定でもあるわけ。

この「一億総表現者の時代」を肯定もしくは前進させる考え方でもある、と言えばまた市場の話っぽくなってぐるぐるぐるぐる。

つまり雑にまとめるとそんなこんなで、多様性に対して寛容である方がお互い生きやすいよね、という主張が世の中に駆け廻るのだと思う。

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