人に見られる必要/ためらわず、書いたものを公開できますように

人に見られる必要がある。

理屈や意味はすっぽり置いといて、とにかく「人に見られる必要」があると感じることが定期的にある。

例えばこのブログや、書いてる短編小説なんかは、見られなければしょうがない。

でも僕は、本来人に見られたくない人であり、写真を撮られたりするのも嫌な人であり、虫のように暮らしていたい人であると思うから、「人に見られる必要」があると感じるのが苦痛でもあります。

でもたぶん、理屈や意味を後回しにしても、人に見られる必要というものはあるのだと感じるし、「人に見られる」、「人が見る」という行為によって変化するものについては強い興味を持っていて、そういえば、21歳の頃に書いた小説のテーマは「見られる私と見る私」だったことを思い出します。

というか今、ああ僕はそれを書きたくてあれを書いたんだって一人で脳内反省会が開かれていて、なるほどなるほど、って約8年の時を経て学習している。これでたぶん、もうちょっとシャープなものが書けるようになったと思う。レベルが上がった音がする。

見ることで変わるものについて、見ているという行為にある不思議さ、人が意思を持って何かを見るってことは何らかの力なのだ、そして何より、誰かと一緒に何かを見るという心強さ。

僕の中にはそういうものに対する憧れや探究心がある。

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見られる私と見る私〈人間原理〉

どうして僕はこうなったのかと言うと、多分、その21歳の頃に書いた小説がどうこうというちょうどその時期に、「宇宙が人間を作った理由」について、哲学だか心理学だかの教授が「自分を観測してもらうために宇宙が人間を作ったという話がある」ということを話してくれて、それに驚いたからだと思う。

宇宙が、自分を見てもらうために人間を作った。

観測者がいなければ宇宙は孤独だが、人間がいることで孤独じゃなくなった。

「ただ見る」という行為を求めて、宇宙が僕らのような複雑な思考を持った存在を作ったのだとしたら、何となく素敵である。星を見よう、と思った。

教授は詳しい話をしてくれたわけじゃないから、当時の僕はこんな風に若干メルヘンめいた思考で宇宙をとらえた。

こういう、宇宙に人間が存在することに都合よく必然性を抱く考えを「人間原理」と呼ぶのだそうです。詳しくは難しくて分からないので気になる方はリンク先を見て欲しいのだけど、こういう考え方も面白いですよね。

宇宙は自分の何を見て欲しいと思っているんだろう、どうして見られる必要を感じたんだろう。

僕らが(僕らがっていうかゴリゴリに賢い一部の人がだけど)必死で宇宙を目指して、宇宙の果てについて研究するのも、宇宙の意思ってことなんだろうか。

そもそも僕らが長生きしようとするのも、何だかんだ自然の秩序を保ちながら発展しようとするのも、いつか来る、宇宙にいるさみしがり屋の誰かと会う日のためにプログラムされたことなんじゃなかろうか。

異方存在と寂しがりのヤハクイ・ザシュニナ

そういや、ちょっと前にプライムビデオで一気見したんだけど、『正解するカド』というアニメもこの話題と繋がるかもしれません。

「異方存在」と自らを称するヤハクイ・ザシュニナが、地球に対してあらゆる異方のテクノロジー(電力を無限生成するアイテム、時間の概念を越えるアイテム、重力の概念を超えるアイテム)を与え、人間を異方へと導こうとするって話。

最初は画期的なテクノロジーに驚くばかりだったし、歓迎ムードさえあったけれど、ザシュニナの目的は強引で独善的なところがあり、最終的には人類に受け入れられない。

ザシュニナの悲願は達成できなかったし、人類は与えられた画期的なテクノロジーは手放すことになったけど、人間が「異方」という領域を「認知した」という事実は残りました、という終わり方でした。

最後に総理大臣が、今度はこっちからヤハクイ・ザシュニナに会いに行こうって演説するんだけど、ここで、「ああ、良かったねザシュニナ」って思う。

そういう存在について考えると、なんだか少し、何の意味もないように見える自分の人生とか、誰にも伝わらない努力とか、叶えたところでどうということもない願望のようなものも、意味があるような気がしてくる。

普通の人が神になる

実際、そんな「存在」がこちらに出向いてくることはありません。少なくとも今はまだありません。

その誰かは、もっと悠長に僕らの進化を待っているのだろう。

とりあえず「自分を見てくれる存在」を作ったけど、きっとそのときに、その存在がいる地球が簡単になくなったら困るから、自動で秩序を保ち、少しでも長く生命を維持し、文明を発展させて、いつか向こうから会いに来てくれるように僕らを作ったのかもしれない。

宇宙において不自然な、「合理的な意思を持った人間」そして「強欲な人間」を作ったのはこういう理由ではないか。

操られてる感じもして怖いけど、もし僕が宇宙だったら、確かに「自分のことを認知してくれる存在」を作ると思う。

自分が誰にも知られていない、一方通行な存在だという状態に、普通の人間だったら耐えられないだろう。逆に、自分のことを知ってくれる誰か、自分の営みに気付いてくれる誰かがいるだけで、なんか大丈夫なような気がする。

と、いうことは、宇宙にいる誰かはけっこう普通の人なんじゃないか、とも思う。

きっと、文明の発展に伴って、個人の力で作れるものが増え続けているので、このままいくと、星を作ったり、宇宙を作ったりできるようになるんだろう。

新規作成をタップすると一から宇宙が作れて、自由にカスタマイズできて、自分だけの生命体を作れるようになる。劇場版ドラえもん『のび太の創世日記』みたいなことができる未来ももう間近で、今僕らが暮らしているこの太陽系も、誰かが夏休みに作った宇宙の一角なのかもしれない。

そしていつの日か気付く。あ、おれ地球作ってる。うわー、まじで文明起こってるよ、争いも起きてるなあ、悲しいけど必要なんだよなこういう時期も。このあとだんだん科学が芽生えてくるんだよね、頑張れ頑張れ。もうすぐ月に届くよ。そんでいつか、この中の誰かがおれに会いに来るんだ。どんな人かな、美人なら良いな、ってか…そうか。神っておれだったんだって日が来るかも。

ああそういえば、ミニチュアの宇宙を題材にした小説もあった。タイトルを思い出せなかったので検索したら、『フェッセンデンの宇宙』という小説であることが分かりました。

どっかで立ち読みしたんだよな。もう一回読みたい。

観測することで振る舞いが変わる量子 二重スリット実験

さて何の話かと言えば、「人に見られる必要」の話でした。このブログ全体的に雑談すぎる。

ただ、さらに半端な知識なっちゃうけど、この「人間原理」とかの話から、ぐっとスケールを小さくして、量子力学の話をつなげると面白いのです。

二重スリット実験という量子力学の分野で有名な実験があるらしいんですけど、これも説明は難しいから分かりやすい動画を貼っておきます。この後の話がちんぷんかんぷんになっちゃうので、知らない方は是非見てほしい。面倒な人は、まあ飛ばしてほしい。

何が面白いって、観測した場合と、観測しなかった場合で、量子の振る舞いが変わるってところ。

そして、具に観測していない状態では、数学的には「量子の振る舞いはすべてのパターンを同時にこなしている」らしい、というところ。

見るだけで結果が変わる領域がある、見られることを意識している何かがあるという感覚は不思議そのものです。

もし仮に、世の中が量子で埋め尽くされているとすれば、文字通り、見ることで変わるもの(決定づけられるもの)はたくさんある、というか、この世界は(宇宙を含め)「人が認知する」という一点で形作られているのではないかとすら思う。

だって、人に見られなければ、今後はどのようなことも起こり得ます。観測されていなかった場合の量子の振る舞いは、数学的に考えれば、すべてのパターンを同時にこなしている状態なのだそうです(僕には何を言ってるのかよく分からないけど)。

量子力学の問題で言えば「シュレーディンガーの猫」という思考実験もあるけど、これも確か、猫は生きながら死んでいるという、二つの可能性が重なった状態を肯定するしかない、という感じのものだったはず。

これはまさに、観測されなかった場合の僕らの人生に当てはまると思う。僕らの未来はまだ決まっていなくて、ということは、あらゆる可能性が同時に起こっている状態と言える。

見せる勇気

あらゆる可能性が同時に存在している。

それは希望でありますが、肉体を一つしか持っていない僕らにとって不安な状態でもあります。なぜなら、同時にすべてのことが起きるということは、何も起こっていないという状態と変わらないからです。

観測されなければ何もないのと同じ。読まれない文章はないのと同じ。朝井リョウ原作の『何者』って映画で、「頭の中にあるうちはいつだってなんだって傑作なんだよ」ってセリフがあったことを思い出すけど、まさに、僕らは見られない状態である限り、何事も決められないまま、形が定まらないまま、生きていける。何者でもないままでいられる。

この状況を打破するのはきっと他者の目である。宇宙が僕たちを作ったように、僕らはお互いに見て、見られて、形が少し定まり、そうすると一歩足場ができるような感じで、前進する。

人に観測されることで、自らの振る舞いを決めることができる。誰かの期待や、観察によって、選択する機会に恵まれ、未来が形作られる。見る、見られるの関係によって、何かが都合よく変化していく。

それは可能性を狭めることでもあるけれど、喜ばしいことでもある。何かが変化し、決まるということは、少なからず進化である。意思を持つ僕らが考える問題は、考えられる問題は、では何を志向し、どんな風に見られたいかを決めることなんだろう。

もちろん、見られたらマズイことや恥ずかしいこと、怒られてしまったりバカにされたりしてしまうこともたくさんあると思う。隠しておきたいことは少なからず誰にでもあるはず。

だけど、それでももし見つかってしまったら、間違いは誰かの(自分を含め)学びになり、発展の一助になるし、大きな視座で見れば、プラスなんだろう。

こうして個人の行動や思考を書き散らすブログや、SNSの発達、そして迎えた監視社会は、良いことも悪いことも、宇宙のレベル、もしくは量子のレベルで見る見られる必要があるからこそ起きたことなのかもしれないです(どうなのかな、やっぱ個人レベルで考えるとしんどいけど)。

だから、全部さらけ出すべきだとも思わないけど、少なくとも、このブログでは書きたいことや見せたいことををためらわず公開するという勇気を持ちたい。このネット社会で、例えばあまり上手に書けなかった小説も、バカにされることを恐れず公開する勇気を持ちたい。

どんな結果になるかに関わらず、それはきっと何か意味があることだと思う。

人に見られる必要/ためらわず、書いたものを公開できますように(完)

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