二重まぶたとくせっ毛の優性遺伝子/人間の優劣と個性のはなし

優性遺伝とか劣性遺伝とかってあって、例えば「二重まぶた」と「一重まぶた」だったら「二重まぶた」を形成する遺伝子の方が優性遺伝子。

「くせっ毛」と「直毛」だったら「くせっ毛」を形成する遺伝子の方が優性遺伝子。

優性とか劣性というと優性の方が優れていて劣性の方が劣っているって普通に感じてしまうけど、そういう訳ではありません。

二重の人の方が一重の人より無条件で美人なんてことにはなりませんもんね。

優性遺伝子とか劣性遺伝子と言ってしまうと語弊がすごいので、近年では「顕性遺伝子」と「潜性遺伝子」という呼び方が登場しているそうです。

参考→「優性遺伝子」「劣性遺伝子」より、「顕性遺伝子」「潜性遺伝子」

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人の優劣を決める遺伝子はないが、人は人間の優劣を判断している

遺伝についての詳しい話は置いとくとして、今日書きたいのは 

フラットで客観的な見方ができる人になりたい。朝と夜は朝と夜

の補足記事です。

どのあたりの補足なのかと言うと

物事には少なくともたいてい二面性があるけれど、勝手な評価による優劣が決められてしまうと価値は偏り、景色は画一的になり、つまらなくなるというようなことを書いたあたり。

この辺をもう少し分かりやすくできないかと考えたとき、「優性遺伝と劣性遺伝」が例として使えるのではないかと思い、理科に詳しい訳でもないのにこんなワードを引っ張り出してきた訳です。

もし優性遺伝と劣性遺伝が、本当にそのまま文字通りの意味だとしたら、人はみんな「二重まぶた」になるべきで、髪の毛はちょっと「カール」してなければなりません。

二重まぶたの方が無条件で美人、くせっ毛の方が無条件で魅力的。

黒人より白人の方が優れてるみたいなのと同じでそんなバカなことはないと思うけれど、世の中は意外とこんな偏りで溢れています。

暗い人より明るい人の方が、声は小さいより大きい方が、無職よりは仕事をしていた方が、未婚よりは既婚の方が、趣味はないよりあった方が、などなど。

こういう風に、「優れている」側をみんなで決めれば、みんながそうなっていく。

すくなくとも「みんな」の前ではそう振る舞うようになる。

一億総優性社会

社会的な動物である僕たちは、社会で生きやすくなるために有利な性質を探して身に付けては優位な立場に立てると信じ、社会的に優位なものを身に付けるほど人間として優れていると思いがちです。

「こっちの方が良いに決まってるよね!」っていう共通理解は、僕たちをそっち方向に導き、画一的にしていきます。

ちょっと前に

【空想科学少年】僕らはロボット目指して頑張ってる。鉄のハートが欲しいと思ってる。

でポルノグラフィティの『空想科学少年』という歌を引き合いに出して、文明に偏るってどういうことなんだろう、正しさを求めるってどういうことなんだろうというようなことを考えましたが、今回は二番の歌詞からちょっとだけ抜粋

ルックスも選べれるのさ

これでコンプレックスとお別れ

みんな一緒 同じ顔

こういう部分があります。歌に興味ある方はリンク先の記事に動画が貼ってあるので聴いてみてください。

価値観が偏って、というかその優劣の評価に偏りがあって、劣る者は生きづらいのだとしたら、「みんなが優れていると思う方」になりたいのは当たり前です。

美人の条件が決まってるのだとしたらみんな整形手術でもして同じ顔になれば良いし、そうなれば唯一無二のオリジナルがなくなって、どんどんつまらなくなる、というか不気味になる。

みんなで「正当性」とか「優劣」を決める文明社会っていうのはそういう危険をはらんでいる。

そしてそこが文明の面白いところでもあるし、実際便利(容姿がみんな一緒になれば愛憎劇も減るだろう)だから否定しきれないという皮肉もある。

画一的な価値観の熟成が個性の必要を作った

美人の条件を優性遺伝子とか劣性遺伝子で決めるように、人間の優劣がある特定の条件で決まるのだとしたら、世の中の人間はどんどん画一的になっていきます。

しかし実際、ある程度僕らの社会というのは画一化を目指しています。

じゃなきゃ、例えば義務教育なんか受ける必要はないのです。

「普通」とか「一般」の質を底上げするのが文明の力です。

そんで十分に画一的で文明的な世の中になった現代では、反対に特出する「個性」とか「オリジナリティ」とかという部分の重要性が叫ばれるようになってきた。

なぜならこの文明的な、高度に均された世の中で抜きんでるのは尋常なことではなく、相対評価では多くの人が欲求を満たすのは難しいからです。「みんな普通にちゃんとしてる世の中」では、悪目立ちこそすれ、普通に優秀では「並みの凡人止まり」なのです。

だからこそみんながみんな絶対評価に乗り換えて、つまり「個性がある」という部分に付加価値を付け、「あの子も良いけど私も良い」が成り立つようにした。

だけどこれでもまだ不十分だろう。

相対評価だろうが絶対評価だろうが、点数を付けているうちは「高得点が良い」というルールからは抜け出せず、結局のところ社会が求める画一的な、文明的なフィールドの中での価値だからです。

見向きもされない人や一般以下の人はやはり相対的に「劣性」と呼ばれ見て見ぬフリされてしまう。

僕たちに優劣はなく、ただカラーがあるだけ

僕たちに与えられるのは点数ではなくカラーだと思います。

本来「評価」されたり「判断」されるものではなく、「役割」を持ち「配置」することで映えたりもくすんだりもする「色」です。

だから一人ひとりがかけがえのない存在だなんて適当なことを言うつもりはないし、むやみに誰かを肯定しようとも思わない、というかそういう風に正当性を持たなければ存在できない感じにモヤモヤを感じて最近の記事は書かれています。

世の中は本当に十人十色です。

カラーなんだからそれぞれ個人には良いも悪いも優劣もなくて、カラーだからこそ人間はその場に似合ってるか、似合ってないかという程度の違いしかないんじゃないか。そして似合ってるにしろ、似合ってないにしろ、「個性」って消えるもんじゃないんじゃないか。

だから何が言いたいのかと言うと、なぜこんな結論になるのか分からないかもしれないけど、「あなたはあなたのままで良くて、あなたはあなたのままで悪い」ということ。

身も蓋もないことだし、結局何も言っていないのと同じですが、そういう両方の性質を僕らは確かに持っていて、フィットできる領域と、どうしてもフィットできない領域がある。

だから今度こそ結論なんだけど、「社会」みたいな限りなく単色に近い領域に誰もがみんなフィットするなんてとても難しいことだよねって話。

社会が文明的に熟成すればするほど「個性が認められる」なんて無茶っぽいよねって話です。

君は景色/田舎への移住を呼びかける訳

「嵐」のメンバーカラーと役割が、完璧な「表現」のバランスを生み出している。

二重まぶたとくせっ毛の優性遺伝子/人間の優劣と個性のはなし(完)

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