地域おこしやまちおこしは僕たちのものにさせて/地方創生を国が行うという違和感について

生き方に正しさなんてものはないと思うけれど、機能的な意味でも、流行的な意味でも、特に若い世代の価値観は個人化に向かっていると言うし、僕もそう思います。

「価値観の多様化」とか「個人化の時代」とか知った風なこと言ってるけどさ…。

「場所」とか「風習」とか「まともな生き方モデル」に縛られて暮らすことに違和感を覚え、それぞれが自分に適した選択を繰り返すことで自分の人生を作り歩んでいくスタイル。

この流れの中に、政府が入り込んでくる地域創生という国策には違和感を抱いている方も多いのではないかと思います。

この違和感をストンと説明するのは難しいけど、なんとなく発想の始点が国と時代の流れでは違うような気がするので考えてみます。

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個人化っていうのは一匹狼を目指す流れじゃなくて脱所属依存!ってことでは

まず個人化って言葉のことなのですが、こう言うといよいよ世知辛い世の中になっただとか、最近の若いもんは本当に他人に興味がないんだなって誤解する方もいるかもしれません。

自由に生きるのは勝手だけど、それはいざというとき誰も助けてくれねえってことだぞ、みたいな。

それは誤解で、個人化を目指す風潮ってのいうのは一匹狼になる、一人で生きていくって意味じゃありません。

日本で、ある会社や職業で、その地域に住んでるってことで、そのままその人のアイデンティティになってしまう所属に依存する意味ってもうないし、そういう垣根を取っ払って一人の人間として生きようという意味。

日本人です、営業職です、結婚してます、札幌に住んでますってことよりも、自分はこんな性格で、こんなことが好きでって部分をアイデンティティにしたい、ってはっきり意識する人が増えたのだと思います。

だからもはや、しがらみの少ない生活を送っているいわゆる「自由人」って言う言葉が古臭い印象すらあります。

だんだん自由人が一般的で、それ以外の「不自由人」というカテゴリーに着目して語らねばならなくなるかもしれません。

個人化する時代だからこそ類は友を呼ぶ型のコミュニティはより盛り上がるのではないか

そして個人化が進んでいるからと言って集団とかコミュニティがないがしろにされている訳ではありません。

個人化というのは言葉の綾で、もう少し突き詰めて考えると、どこまでコミュニティを細分化して行っても生存可能な状態のことなのだと思います。

個が確立しているから、全体としてもパーツとしても活きるという感じ。

どのコミュニティにも「個性的な人」や「変わった人」がいるワケ

その果てに、別に一人でも生きてはいけるけど…って部分がある。

だけど、人生を普通に謳歌するにも、誰かの助けが必要なことや、誰かがいてくれることで色付く景色がたくさんあることは皆知っている。

人の中で生きてこそ人間と呼ばれる訳だし、本当の一人では名前すら必要なくなってしまいます。

個人化というのは、どんな人たちと一緒にいたいか、どんな場所で、どんな風に生きたいかを選ぶための手段であり、誰もが「公のものではない自分」を取り戻すための選択です。

ありのままの自分でいながら、自分だけのオリジナルストーリーを作るための手段。

自らが自分の人生の監督・演出・出演・企画構成・広告全てやりますってことだろうし、むしろより純粋に人と繋がろうとする意識の表れだと思います。

お前は何物だと聞かれたときに、○○社で営業してますとかって項目が一番最初に来る自己紹介で人間関係が成立してしまうことに空虚感を抱いてしまう人が増えた。

所属や年齢で自分を理解された気になるのは癪だし、良くも悪くも展開が予想可能な水戸黄門のような人生を演じるには、僕らは想像力がありすぎて困る。

世界が簡単に俯瞰できるようになった時代だからかもしれません。

大きな視野を持って、それぞれが自分にとって一番心地よい場所を探しに行ける時代なのです。

 地域創生。地域は市場ですか?

ところで地域創生。

地域創生って言うのは僕には結局何をするものなのかまだよく分からないのですが、こういう記事がありました。 「近代国家の原理とはある種矛盾する地域創生

私が心配しているのは、このまま中央に住んで中央の価値観を持っている人の政策で地域を活性化しようとしてもこれまでと同じ結果になるだけではないかということです。

この心配については何となく分かります。

誤解ならそう言って欲しいんだけど、地域創生って結局、国が地方に市場を見出したってだけの話しではないかと思うのです。

そりゃそうだと言われればそれまでだけど、それじゃあ根本的に話しが違いますわって感じがします。

そもそも、国とか政府とか通貨とか保障とかそういうのが全然信用できないな、しがらみに捕われた人生送っても、それに見合う幸福を得られるかどうか分かんないなって部分が個人化の流れを生んだ根本でしょう。

例えば、企業に就職してもいつ倒産するか分からん、給料も上がらんのにやればやるだけ、できればできるだけ労働時間は伸びる、年金だって収めたところで定年がいつになるか分からんし、もらえるか分からん。

おいおいこれは国に頼ってちゃダメなんじゃないの?国の言う通りにしてたら死ぬ日まで決められちゃうよって不安が個人化という流れを作っている、とすれば、地方の眠れる財産を活用して儲けましょうとかって国に言われてもなんだかピンときません。

いや、だから、働きに見合った報酬が得られる経済政策を応援してるんですよ、景気を上げる政策をとっているのですよ、デフレ脱却って言ってるじゃないですかって言われるでしょうか。

いやいやだからね、それが中央の価値観なんじゃないの?って話なんです。

結局政府が力を入れている分野が儲かることに違いはないのでしょう。

その一つに地方がたまたま市場としてあるって訳で、かなり恣意的な経済のコントロールであって、「今度はこっちに餌をまくのでみんなそっちへいけーって」言われてるような気分だし、これって個人化の流れとは逆行するのでは?

 地方を信頼してくれる地方創生ならいいな

ところで、上の記事の「これまでと同じ結果」ってなんだろう。

炭鉱の町として栄えたけれど、石油の台頭により急速に衰退し、財政破綻に追いやられた夕張のようなケースでしょうか。

それとも、単純に給付金や助成金のばら撒きのことでしょうか。

いずれにせよ、東京とかの大都市の成長や内需がもはや飽和状態だから地方で稼いで税金払ってくれぃという話しに聞こえます。

「稼ぐ方法探したらあるんだろ?絞り出してよ!お膳立てはするから」みたいな。

穿った見方というか、嫌な言い方になってしまいますが、地方は地方で頑張って自活の道を探してるところなのに、あとから政府がしゃしゃり出てなんとか国策って形に収めようとしてる印象すらある。

国の政策で地方が活性化したってことになると、結局国の経済政策に乗っかった地方ということになるし、地方で限界が来るとまた国はさーっと引いていくのかなと思うと、また使い捨てられた箱ものや形骸化したブームの置き土産みたいなものが増える想像をしてしまいます。

まちおこしとか地域づくりは僕たちのものにしておいて欲しい。故郷とか自分の田舎ってマーケットとはちょっと違う、精神的には聖域みたいな側面があると思うから。

そうじゃないなら、例えば、正直もう国に頼らないで、各地方、各コミュニティで自活の方法探してほしい、年金とか正直払える気がしないんだけど、それ言うのもちょっと今無理だし、それどころか消費税上げるって言うだけでもけっこうしんどいくらいで、どうしていいか分からないから、最悪政府ってないものだと思って、それぞれたくましく生きる方法探してほしい。

って言ってくれたら、「そうだよね。分かるよ。大丈夫頑張るよ。そっちはそっちで日本が国民一人ひとりのオリジナリティを受け入れられる土台になるように頑張ってね、ほら、何かあったときにやっぱ国が守ってくれるって心強いしさ」って言えると思う。

まあでも、ろくに議事録も読まないで、印象だけで好き勝手なこと書いてたらダメですよね。

純粋に地方が元気になったらいいなって考えてるだけかもしれないし、僕が被害者意識マックスで変な妄想してるのかもしれないし。  

 地域創生ってよく分からないけど、あんまり必要ない感じはしている。      

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