英語と日本語のメンタリティの違い。やってから考える英語、考えてからやる日本語。

英語って主語が来て、次に動詞が来る。

「誰がどうした。」がまず来る。

ほんで必要があれば後ろから修飾していくっていう構造を持った言語ですよね。

一方日本語は、ごにゃごにゃごにゃごにゃ言った後に「何をした」っていう言語。主語は書かれることも書かれないこともある。

やってから考えるのが英語で、考えてからやるのが日本語、という風に両言語の違いを捉えると、ちょっと面白いかもしれない。

言葉の話というより多分ぼくは文化の話がしたい。

言葉の違い、そして言葉の違いから見える文化との関連、みたいな話。

興味ある人いるだろうか。長くなる気と面白くなる気がするんで是非読んでいただきたい。

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とにかく行動!と唱えられることが多くなった

昨今、「とにかく行動しろ」という言説に触れる機会が多いような気がします。

ごちゃごちゃ考えてないで行動しろ、ごちゃごちゃ考えるから行動にうつせない。

考えれば考えるほどやらない理由を考えてしまう。ああでもない、こうでもない。でも、だってっていう言い訳が無数に湧いてきて、ついに行動にうつさない。

こういうマイナス面も、日本の文化、という気がしますよね。

いつまでも何も変わらない。

やってから考えろ、やりっぱなしではなくて、まずやって、向いてるかどうか確かめる。まずはやって、うまくいくかどうか考える。

このような自己啓発や成功原理に関する情報が多いと感じます。

たまたま僕が触れる情報にそういうものが多いのか、とも思うけど、自己啓発書とかにはあまり興味がないし、どうなんだろう。

でももっとお金を稼げるようになりたい、安心して楽しく暮らせるようになりたいという気持ちは強くあるから、意識的にそういう情報に触れる機会が増えただけかもしれない。

 

とにかく行動!というのは英語的な思考なのか?

とにかく行動!というのは、英語圏文化の根底に流れるメンタリティなんじゃないか。

そう考えるのはなかなか面白い。普段使う言葉と行動の基本姿勢がマッチする可能性、という考え。

行動する前にごちゃごちゃと考えてしまうのは我々が普段日本語で思考しているからであって、いわば日本語のメンタリティと言えるのではないか。

日本語的なメンタリティが根付いているからこそ、僕らは「とにかく行動だ」と発破をかけられないとなかなか行動にうつせないのかもしれない。

いやどれだけ言われたってやっぱり考えちゃう。先にああでもないこうでもないって考えちゃう。

難しいのは当たり前だと思いますね。

僕らが急に英語を話せと言われても難しいのと同じくらい難しいことだと思う。

もし日本語に根付いたメンタリティなのだとしたら、すぐにできることではない。

生き方や考え方も欧米化していく?

背景にはやっぱり全体的に個人化の時代が来ている、というものがあるのかな、と思います。

欧米に詳しいわけじゃないから知ったかぶりだけど、生活スタイルだけでなく思考そのものも欧米化しつつあるのかもしれません。

個人化ってのは、何かに所属するパーツとしての自分ではなくて、良くも悪くも個人で完結するアイデンティティを求める傾向、と言ったところでしょうか。

なんせ企業とか国とか、大きな船が信用できなくなってきた。

大船に乗ったつもりでいられるところなんかもうなくて、ここにいれば安心、これをしておけば安心という事柄もなくなってきた。

就職すれば安泰ではないし、年金収めても貰えなそうだし、隠ぺい体質だし、好景気が続いてるとか言うけど安心感も昂揚感もまるでないし。

むしろ今が好景気ってバッドニュースだろ。不景気だと思って納得してたのに。

こんな時代においても、あまり成功や効率の良い生き方を口にすれば意識高い系と揶揄される風潮もあると思う。

だけど個人で生きるにはどうするべきか、「ここに所属する○○」としてではなく、個人として市場価値を持つにはどうしたら良いか、と考える人が増えるのは自然で健全だと思う。

まだ全体としていわゆる意識高い系を揶揄するのであれば、それは一人で自前のボートに乗って大海へ漕ぎ出す人を、泥船に乗っている大勢の人が笑っている、という構造なんじゃないか。

さて本当に国のような大きなものが泥船だったとしたら「自前のボートを作って大海に漕ぎ出す」という思い切った行動を取る必要があるんだけど、このとき「行動してから考える」というメンタリティが必要になるんだろう。

根底に流れるメンタリティが言語構造に依存する

僕は過剰なナショナリズムも持ってないし西洋、欧米コンプレックスも持ってないから、この話題をそういうフィルターで見るのは控えてほしい。

都合の良いものは取りいれられ、不必要なものは切り離されるだけの話で、今多くの人が求めているのは「ごちゃごちゃ考える前に動きたい」というものなのではないかという話です。

つまり「やってから考える」メンタリティを必要としていて、それはまさに英語の発想であり、英語圏のメンタリティなんじゃないかと考えると面白い(僕は)ということです。

てことは食生活や働き方や子育て法学習法あらゆることが欧米化していく昨今において、「とにかくやれ」という言説は思考法そのものから欧米化する方策なんじゃないか。

いやもちろん英語を話す人たちがみんな同じメンタリティを持ってるなんて思わないです。みんなとりあえずドゥーイットドゥーイット!なわけない。

ただ、たとえば新しいことに挑戦しようとするときに否定しないとか、試行錯誤してる人を馬鹿にしないで応援する傾向があるとか、そのくらいの違いはあるかもしれない。

※日本は世界幸福度ランキング58位。「他人への寛大さ」が92位という結果でしたね。

あくまで傾向として、根底に流れるメンタリティが言語構造に少なからず依存するのではないかっていう思いつきです。

中国語は?

個人化の時代と言うのであれば、今勢いのある中国語はどうなんだという疑問が湧きますよね。

僕は湧いたのですごく簡単にですが調べてみました。

以下の記事を読んだだけです。

孤立語・膠着語・屈折語:言語形態学から見た日本語

中国語は孤立語という言語に属するものです。

孤立語とは、うまく説明する自信がないので上記の記事から引用させてもらいます。

孤立語とは中国語に代表されるもので、それぞれが独立して完結した意味を持った単語を、単純に重ねることで文を構成ずるものである。

パッと見意味が分からないかもしれないですが、印象として個人化の時代と相性が良そうですよね。

そして最後に気になる記述が。

英語の場合には、単語を並べるだけで意味を表現しようとする傾向が強まっている。この現象を捉えて、言語形態学では英語の孤立語化現象などという人もある。

英語ってそもそも屈折語に分類される言語なのです。

文の構造に応じて格変化とか人称変化とかしますからね。でもそういうのなんとなくルーズなところがあって、日常で少々違ってもあんまり気にしないし意味は伝わるみたいなところがあって、だんだん屈折語化してるよね、ということ。

中国の勢いがすさまじい時期が続きましたが、もし成長するマインドやメンタリティが日常で使っている言語と関係があるとしたら、そして人類は無意識に経済的な合理性に従って変化していくとしたら。

面白いですね。

でも日本語は孤立語になるような大きな変化はしないでしょ

日本語も合理的な方向へ変化していくのか?

日本語は膠着語に属する言語で、単語と単語をノリでぺたぺた貼りつけてつくっていく言語です。助詞使って。

これが英語のような屈折語になるとか、中国語のような孤立語に変化していくかと言われれば、もともと遠いので起こりえない。

でも冒頭で書いたように「まず行動!」みたいな風にメンタリティの方から啓蒙されるってことはあるだろうし、ビジネス色を追及して行ったら英語の方が楽、中国語の方が楽、という風になるかも。

だから、日本語がそもそも使われなくなるかもってこと。

また、例えばWEBで文章を書いてると思うのだけど、セオリーはまず結論!です。的確に、読者が欲してる情報を与えるってことですね。そうじゃないと離脱するから。

冒頭で結論を言う。それから詳細を述べていく。

言語の構造そのものが変わることはないけれど、このように、合理性に従って文の構成の方を変えていく、ということは起こっている。

 

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