感情を尋ねるために怖い話を聞くということ

水曜は自分の町に関わる文化風俗を研究し、その成果を小説に仕上げるまでをコンテンツにする日。今日はあんま関係なさそうに思えるかもだけど、「怪談」に関する話を書きます。

さてさっそくだけど僕は怖い話が好きで、寝るときに怖い話をyoutubeで聞きながら寝ることが多いです。

なんで怖い話が好きかなんて考えたことはないのですが、考えてみると怖い話が面白いと思うポイントは3つくらいある。

いずれも「怖い」という感情が沸き上がるときの場合の話ですが

・物語としてよくできている

・死後の世界や存在があると考える方が個人的には納得できる

・妖怪やお化けに関することは民俗学に関わる(今日はここがポイント)

僕は怖い話が作り物だろうが本当にあったことだろうが構わないどころか、怖い作り話の方が感動?するかもしれない。

それは、それだけ人為が関わっているということでもあるし、そういう人が為す営みが文化を作るもしくは文化の鏡写しのような関係になるというところがすごいなって思うからです。

また、死後の世界ってのが本当にあるとして、その結果としてのお化け騒ぎなのだとしたらそれはそれで人為だよな、すごいなって思う。

でなんの話かと言うと、以上のような観点で見たとき、「怖い話」や「怖いと思ったこと」「不思議に感じたこと」を世代の違う人に問うというのは文化風俗を知る上で大いに参考になるんじゃないかって話です。

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できるだけ怖い話や体験を聞くことにしてる

以前、祖母にも怖い経験とか不思議だった話はないかと聞いたことがあります。

祖母には霊感はなく、怪談的な怖い経験はないようでした。

でも祖母が言う「ばあちゃん」(僕から見てひいばあちゃんに当たる人なのか、ばあちゃんのばあちゃんなのかは謎)は霊が見える人だったらしく、葬式帰りに火の玉を見るとか、女の泣き声が聞こえるという話はよくしていたそうです。

祖母曰く、しかし考えてみれば、そういう話を聞いても怖いとかそういう感情よりかは、可哀想という感情の方が強かったし「おばあちゃん」も可哀想に思っているようだったと言っていました。

もちろん、普通に霊が見える人ほど霊が身近で、当たり前の存在だからこそ「怖い」という感情にはなりにくいのかもしれませんしその人の性格によるんだろうけど、その分を差し引いて考えても、昨今は怪談に期待するエンターテインメント性が高まってきているのかなとは思います。

怪談の捉え方が変化してるということですね。

エンターテインメントとしての怪談の進化

「怖い話」や「怪談」というものも時代と共にだんだん進化しています。

この記事↓が面白いです。怖い話好きな人は例に挙がっている怪談と共に必読。

いかにして『八尺様』は生まれたのか/WEB怪談と現代のオカルト

幽霊とかお化けってものの存在は普遍的なもののハズなのに、時代と共に語られる怪談の性質や形質が変化しているというのは単純に面白いですよね。(ややこしくなるから深追いしないけどお国柄みたいなのもある。日本のおばけとラテン文学とかで言うところの霊って全然違う。アメリカンホラーとかも趣が違うし、あとイギリスとかだと幽霊はフレンドリーな存在らしい)

国内の怪談に限っても、時代と共に語られ方が変化するというのは流行り廃りがあるということだし、それだけエンターテインメントのジャンルとして確立しているということでもある。

そして上記のブログ記事で怪談の出現を眺めてみると、時代をちゃんと反映しているようにも見える。2chとか実況とか、当時の新しい概念ツールと共に発達しているから。

こういうのって怪談に限らず単純に面白いなって思うのですが、そういう発展とか進化を踏まえたうえで、先の「おばあちゃん」の話から僕が感じたことの一つは、昔は不思議に対して寛容だったんじゃないかということです。

不思議に対する目盛りが荒い?

当たり前だけど、昔よりは今の方が「不思議なこと」は少ないです。

心霊写真なんかほぼなくなっちゃったし、人の心理とか記憶って全然当てにならないよねってことも一般的に知られるようになった。

だからだいたいは思い込みとか錯覚とかで、そう見えるというだけの話が多い。あらゆる心霊現象が科学的に説明できるのです。

でもそれ故に純度の高い不思議が生まれるのかもしれないし、説明できないことがかえって多くなったのかもしれないし、最近では「人こわ系」みたいなジャンルもすっかり定着してるけど、逸脱する精神というものに対する怖さも研ぎ澄まされてきた。

しかし今よりも不思議が当たり前にある時代(不思議が不思議のままの時代)であれば、不思議に対する目盛りが荒い分、狂人はどんなものであれ「はいはい狐憑きね」、なぞの光は「はいはい火の玉ね、あるある。」みたいな要領で処理されていたのではないか。

情報より感情を知るための物語

いや、そういう風に考えることもできるけど、平安時代とかならまだしも、明治や大正を経てなおそこまで荒く怪談が扱われているわけがないと思う。

しかし文化風俗に関わることで言えば、それこそ「戦争」が身近にある時代、もしくは「戦争」を経て、「死」というものが今よりも身近にある時代、「幽霊譚」もどこかで起こる不思議ではなく、身近な世間話だったと考えるのが自然かも。

「死」が身近でない今だからこそ僕らはそういうものにある種の幻想を抱いていて、エンターテインメントとして扱うことに抵抗や違和感がないと考えた方がしっくりくる。

こんな感じで色々と考えることはできるけど、いずれにせよ「怪談は時代を映す」ということはたぶん間違いなく、何を怖いと思うかっていうのはすごく個人の感情に関わることだと思うから、「怖い経験」、「不思議に思ったこと」を聞くのは重要だなと感じているという話です。

なんで怖い話?と思われる方もいるかもしれませんが、その理由は僕が怖い話を聞くのが好きだからであり、なんとなく恐怖ってあらゆる感情の中でも原始的な部類に入るんじゃないかなと思うからです。それだけ素を知れるというか。

しかし同じく感情に関わることであれば、恋愛譚やら滑稽譚だって同じく重要だと思ってます。あと恋愛に関することは聞いたり話したりするのちょっと恥ずかしいところあるはずだし、面白い話って後から話してもあんまり面白くなかったりすると思う。

その点、怖い話って話しやすいし再現しやすいんじゃないかなって個人的には感じてます。だからこそ物語としてよくできてるというか。

ここで言いたかったのは、ただ情報ではなく感情を尋ねるとき、その方法のひとつとして、現代でよく整備されており、僕が好きな怪談がある、ということでした。

感情を尋ねるために怖い話を聞くということ(完)

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