意見がないときに使うと便利な感情の言葉

僕は基本的に意見を求められるのが苦手です。

なぜなら、意見なんてほとんどの場合ないから。

今までいくつも意見を発表する場や交流させる場があったけれど、どれもこれも苦痛な時間でしかありませんでした。

やれクラスのいじめがどうとか言うホームルームとか、ボランティア活動内での会議とか、ゆるい集まりのゆるいトークテーマとか、どれもこれも回転が遅い僕にはその場で考えるのは難しい。

僕は意見を求められる場を嫌い、高じて会議や話し合いのにおいがするものから遠ざかり、こじらせてこんなブログを書いている。

ゆっくり考えるべきことはたくさんあるけれど、意見はない。有益なこととか、建設的なこととか、立派なこととかは咄嗟に言えない。だから意見がないというよりは、その場で求められる意見を出す自信がないという感じ。言い返されたりしたら怖いし。だからと言って馬鹿にされたくないし。

こんな気持ちが分かる人に教えたい「感情の言葉」があります。

議論で意見を求められたとき、何かをちゃんと言わなければならないとき、無難に乗り切る方法。

口に出して注目されることはない、むしろ場を白けさせるかもしれない。だけど議論には参加してる風を装えるし、良くも悪くも誰の記憶にも残らない、議論を避けたい人にうってつけの方法です。

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「そこまで言って委員会」で見た「寂しいです」発言

こないだ「そこまで言って委員会」を見ていたのですが、僕が苦手なのはまさにああいう空気です。

意見や見識をぶつけ合う場、自分の正当性を認めさせようとする場。小難しい知識と知性のつばぜり合い。議論という形式。

で、そんな僕がそこまで言って委員会を見ているとき、こういう類の場面でなぜか女性に求められがちな立場ってあるよなって思った。

それが「感情の言葉」を使う人です。

「そこまで言って委員会」の場合は山口もえさんだった。

拉致問題と安倍内閣に関するテーマで、『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』を著した蓮池透氏を迎えたところ。

食事か何か別のことをしていて正直僕は全く聞いていなかったけれど、蓮池氏が何やら発言した後に、「でもそれは憶測ですよね?」というような議論になったはずです確か。

ほんのり場が白熱したあとに、山口さんが「蓮池さんはきっととても影響力のある人だと思います。そんな人が憶測でお話しされると寂しくなってしまいます」というようなことを発言しました。

食事に夢中だった僕ですら「まったく意味が分からない」と思ったんだから会場はいかほどかと思ったけど、これに対してとやかく言う人はスタジオにいません。なんと議論が収束したのです。

ポイントは山口さんが「否定しようのないことしか言ってない」ということ。

蓮池さんが影響力のある人だと思うというのは事実かどうか分からないけれど、少なくとも拉致被害者の親族だし、本の著者なのだから一般人よりは影響力があるに違いない。

そして「寂しい」という感情は意見ではないから、それが事実にしろその場のノリで言っただけにしろ、否定しようがない。

良くも悪くも返す言葉がない。意見としては何も発言していないに等しいけど、適当なところで場を納めるという役割を山口もえさんは見事にこなしたのです。こなれてるなって思いました。

考えてみれば、他の番組などでもこのような「こういうニュース見ると悲しくなっちゃう」とか「虚しいなーって思いました」とかって言う立ち位置の人っているよなって思った。

感情や印象の言葉がまとめの役割を果たすとき

意見が交わされる場では、とくに古い体質の会議や交流会であればあるほど、内容に疎い人が必ずと言って良いほど配置されます。

男社会に対する過剰な偏見だと思ってくれて構わないけど、僕がイメージするのは、白熱した意見の交わし合いをしたあと、女の子に意見を求めるみたいな場面。

実質議論の場においては蚊帳の外なんだけど、第三者の公平で率直な意見要因という立場を着せられて、建設的な意見ではなくてただの印象や感想を求められる女性。

例えば新しいおもちゃの開発会議とかがあったとして、最近は知育に関心の高い親が多いからどうこうとか、親が子どもとか関係なしに欲しいと思うデザインがどうかとか、いやそもそも子どもが使うものなんだから安全性が第一だとかいろいろ皆がそれっぽいことを言う。

最後に偉い人が君はここまで聞いてどう思う?なんて若い女の子に聞いて、「よく分かんないけどこっちの方がワクワクします。私がママならこっちかな」とか言えばそれで議論が終わっちゃう。じゃそれで、って感じで。

いや僕がっちりした企画会議なんか出たことないからそれこそ憶測のストーリーでしかないし、露骨な例過ぎるかもしれないけど、こういう流れってなくもないんじゃないかな。

議論の終盤でつい出ちゃう感情の言葉

極端な例だったのでもう一つ例を挙げます。

「泣けば済むと思いやがって」とかって慣用句としてあるけど、実際泣けば済むことって多くないですか?

さすがに大人同士でそんなこと滅多にないだろうけど、例えば夫婦喧嘩してて、子どもが親の喧嘩を怖がって、不安がって泣いたら休戦もしくは終戦せざるを得ないでしょう。ヒートアップし過ぎたなって普通は思うのではないでしょうか。

その喧嘩だって、お前が悪い、あんたが先にこう言った、お前のそういう行動が誤解を招くって言ってるの!どれだけ私のこと信じられないの!信じるとかじゃないだろ、人としてどうなの。人としてって言うならそっちだってこそこそ探るようなことして汚い!探られてるって思うってことは後ろめたいからじゃないの?みたいな水掛け論が続いて不毛この上ないです。

なんの話なんですかね。なんかどんな喧嘩を連想するかで日ごろのトラブルが分かっちゃう心理テストみたいですね。

こんな言い争い続けてもしょうがないから、こういう喧嘩は次第に感情論になって行くのが常だと思います。

不安だとか、悲しいとか、寂しいとか、がっかりしたとか、疲れたとか、議論を終わらせたいときってついこういうことを言ってしまうものです。

感情の言葉は否定しようがないからで、僕らはそれを何となく心得てる。

それなら初めから冷静に感情の言葉を使って話せば、議論がヒートアップせずに済むんじゃないかなって昨日の夜僕考えたわけです。

感情の言葉で議論が冷静になる

ほうこれは逆転の発想だ。議論は冷静に論理的にが基本だと思っていたけれど、議論は感情的にやった方が早く終わるんだ。

感情的にと言えば語弊があるな。正確には「感情の言葉を使って」だ。

正当性を主張し合ったって「正しい」ことなんて世の中になくて、「正しさ」なんて見る立場によって違うんだから、否定の余地がいつもある。いや違う、いやそれはって延々と続けられる。

議論で意見を求めるのは、ただ議論を続けたいからなんじゃないかって邪推すら生まれる。

だけど感情の言葉を使えば、それは否定しようのないことで、本心だとしても、借りにその場のノリで言っただけだとしても、それは受け止めざるを得ないです。

一方が「不安だった」と言えば、事実がどうであれ、「ああそう感じたんならごめん」って素直に謝れるんじゃないか僕たちは。

その上で、実はこういうことがあったというような自分サイドのストーリーを話せば、もしかしたらその感情が起こす必要はなかったって分かってもらえるかもしれない。

こっちの方がよっぽど建設的な意見の交換になるのではないか。

感情に結び付ける練習をすれば議論も怖くない

さて、しかしここで書きたいのはカップルの喧嘩の終わらせ方ではなく、真面目な議論の中で意見を聞かれたとき、どう乗り切るかです。

選択肢があるなら良いです。こっちが好きです、こっちが熱いです、こっちの方が良いにおいです。それで済む。「感情の言葉」を使い、誰にも否定できない発言をしましょう。

ちょっと自分には難しいなって話題とか、正直予備知識的なものが全然なくて困っちゃうみたいな話だったらどうしよう。

つまり僕にとってはほとんどの話題。

例えば最近だったらベッキーの浮気問題とかで意見を聞かれたら?

倫理的に浮気がどうのとか報道の仕方がどうのと述べるより先に、「好きなタレントさんだったのでショックです」とでも言っておけば言いのではないでしょうか。

もっとガチな話題だったらどうでしょう。

拉致問題、慰安婦問題、原発再稼働、日米安保法案、などなど、僕らが議論すべきだと思われる大問題はたくさんあります。

だけど残念ながら知識が乏しい。全体像が分からないし、正直みんな何で怒ってんのかも良く分からない。そこで自分のターン。ここをさくっと乗り切らねばならない。

安保法案が強行採決の末可決されましたがどう思いますか?

「なんか、こういう風に国の流れが勢いで変わっちゃうんだって姿を目の当たりにしてとにかく怖かったです」

「憲法第9条は僕でも知ってるくらい象徴的な日本の平和維持に対するスタンスを表すものだと思うので、この辺りがブレるのは寂しいなって思います」

そうですねって言わざるを得ないし何となく意見を言ってるっぽくなってるんじゃないでしょうか。実際こいつあんま分かってないな、真剣に考えてないなってバレるんだろうけど、発言さえすれば嫌な思いはさせないで済むでしょう。無事に無難に自分のターンを終わらせられる。

こういう言い回しの練習すれば意見を求められても怖くないかも、って昨日の夜考えた。

意見がないときに使うと便利な感情の言葉(完)

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