共感能力と「秘密」を暴かないコミュニケーション能力

人は基本的に共感したいものだと思います。

自分が思っていること、感じていることを誰かに話して、自分も同じように感じていたと言われれば、無性に嬉しい。

コミュニケーションはすべて共感を目指すと言っても言い過ぎではないのではないかとすら思う。

共感し、共有することの効用は、まず重すぎる荷を軽くすることができる、そして自分を肯定することができる。そんなとこだろうと思う。

例えば、なんかよく分からない症状に悩まされることはありませんか。どこが悪いか分からないけど何となく体調が悪いとか、別に心当たりはないけど内臓のどこかが痛い気がするとか。

そういうのを誰かに話したとき、「あーあるよねそういうこと」って言われるだけで楽になる、という経験があると思う。共感には荷を軽くする効用がある。

例えば映画を見て「面白かった」と誰かに言って、「面白かったね」と言われれば楽しい。自分の感じ方は正しかったんだって思える。この人と一緒に映画見に行って良かったと思う。共感には、自分を肯定する効用もある。

だけど、共感って微妙に難しいところもあったりする。

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微妙にずれた共感

日本にも次第にシェア文化が息づいて、良いことも悪いことも情報として、経験として分かち合おうという風潮にはなっていると思う。

ブログを見れば様々な人の個人的な体験を垣間見ることができるし、あらゆる経験に基づく色々を知ることができる。

誰もが惜しげもなく自分の何かを切り離し、どこかの誰かと共感しようとしている。

だから僕らにとって共感ってすごく大事なこと。

でも微妙にコミュニケーション能力を問われる共感の仕方もありますよね。

例えば、何でも良いんだけど、「自分の親はすごく素晴らしい人間で、自分が風邪をひいたときには徹夜で看病してくれた」みたいな話をしたとき、期待する答えは「良いお母さんだね」みたいなことですよね。

「自分の親はすごく素晴らしい人間で」ってところを共感して欲しくて話してる。

でも、「あ、うちの親もそうだったー。夜食とか作ってくれてさー。ほんと親ってありがたいよね」みたいなこと言われたら微妙に話さなきゃ良かったって思いますよね。越えて来てんじゃねーよとかって思うかもしれない。

秘密の引力

さらに難解な場合もあります。そっとしておくという高度なコミュニケーション能力が問われる場合。

それは共感を拒否しているかのように、ある領域について口を閉ざす人に対してです。

人は必ずしも共感を求めている訳ではない。いつもいつでも共感を求めている訳ではない。

口を閉ざす領域があると分かればその人は「秘密」を持っているように見えますし、「秘密」を持っていると思えばどうしても気になってしまいます。

だけど人の秘密を暴くのはとてもリスクの高いことだと思う。

というのも、これは僕がある人から教わったことなんだけど、「『話さない』という選択肢はそのことをすごく大事に思っているから」という可能性があるのだとか。

その大事に思っていることを明かしてもらって、その大事なものを汚さない損なわせない自信があるようなコミュ力の塊みたいな人間でもなければ、人の秘密に足を踏み入れるべきじゃない。

その人はある領域になると口を閉ざします。誰にも何も話していないようです。僕はそれが不思議で、別のある人に、その疑問をぶつけてみた。なぜ話さないんだ。話したくならないのだろうか。ちなみに秘密めかして書いている。

「大事にしてるってことなんじゃないの?」

眼から鱗が落ちました。そのときまで、僕はそんな人間の仕組みがあることを知らなかった。もしかしたらどちらかと言えば女性的な仕組みなのかもしれない。僕はこの辺りの機微に疎かった。

でも言われてみれば、自分の身で考えてみても分かることでした。大事なことは、大事であるが故に、誰かに話して変に共感されたくない、分けて薄めて喜びたくないということでもある。

誰にも背負わせたくない荷物みたいなものが、僕らそれぞれにある。確かにある。僕にもある。

共感能力と「秘密」を暴かないコミュニケーション能力(完)

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