遠藤周作『沈黙』の映画版『サイレンス』と日本人の宗教観について

洋館 撮影 猫

遠藤周作の『沈黙』は読んだことない。

遠藤周作の作品では『海と毒薬』を読んだことがあるくらいで、カトリック作家のイメージはあったものの、そんなイメージだからこそどこか敬遠しているところがありました。

きっと「信仰」というものに対しての拒絶反応があって、同じく宗教色を作品に反映する三浦綾子や宮沢賢治の作品は、あえて宗教色のするところを見て見ぬフリしてきた気がします。

マーティン・スコセッシ監督『沈黙‐サイレンス』がプライムビデオで配信されていたので見てみました。公開当時から気になっていたけれど、やはり劇場に足を運ぶほどではなかったのです。

『沈黙』を読むモチベーションが上がらないものの、読んでないところにどこか罪悪感があったからこそ映画版『沈黙‐サイレンス』で代替しとうと思ったのだと思います。

プライムビデオで今すぐ『沈黙‐サイレンス』を見る

結果、映画を見て「信仰」について考えるきっかけになりました。

信仰に対する漠然とした恐怖というか忌避感について思いいたり、それから、「信仰」がない人はいないんじゃないか?という点に至ったのでこれらを辿る思考回路を書きます。

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隠れキリシタン、カクレキリシタン、潜伏キリシタン

映画を見て、記事を書くにあたって、少しだけ勉強しました。

江戸時代、禁教令のなかにあって密かにキリスト教の教えを守り続けた人々を「隠れキリシタン」と呼ぶことは知っていましたが、「カクレキリシタン」、「潜伏キリシタン」といった区別がされていることは知りませんでした。

・弾圧下にあって、表向きは仏教徒であるフリをして、その実キリスト教を信じていた人たちのことを潜伏キリシタンと呼ぶ。

・禁教令が解かれてもこれまでの信仰(秘教信仰)の形態を守り続け、正規の?カトリック教会に戻らない信者がいた。この人たちをカクレキリシタンと表記する。

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が無形民族文化財として世界遺産に登録されたことは記憶に新しいですが、このとき、対象となるのは「弾圧下で密かに信仰を守り続けた人々」なので、隠れキリシタンの中でも「潜伏キリシタン」として区別された。

面白いのは、隠れキリシタンが禁教令が解かれたあとも、それまでの秘教としての信仰を続けたということ。

晴れてキリスト教信仰しても別にいいよ、ということになったのに、堂々とカトリック教会に赴かずにそれまでの信仰を続けた。

どうしてなんでしょう?

日本にキリスト教は根付かない?

『沈黙‐サイレンス』は、高名な宣教師フェレイラが日本で捕えられ、棄教し日本名で暮らしているという噂を確かめるため、いいえその噂が真実ではないということを確かめるために2人の弟子ロドリゴとガルぺが日本に訪れるところから始まります。

『沈黙‐サイレンス』の中で印象深かったシーンの一つは、棄教し(「ころぶ」と言われる)、日本人として生活するフェレイラが日本人は根本的に我々の神を理解しないと、ロドリゴに諭すシーンです。

キリストの教えに従っていて、その信仰の厚さに感動を覚える場面もあったロドリゴでしたが、彼らが理解している神や、彼らが欲している信仰というのは、カトリック教徒が信じている神や教典とは根本的に違うものだったと諭すのです。

この部分、フェレイラのセリフのいくつかを引用します。

「日本人が信じたのは歪んだ福音だ。我々の神など信じてはいない」

「彼らは自然の内にしか神を見いだせない。人間を超えるものはないのだ」

「キリスト教の神の概念を持てない」

ロドリゴは反論します。殉教者を実際に見た。信仰を持った人々はデウスの名を唱えていた。

同じような反論をしたくなる人もいるかもしれません。彼らの信仰心がキリスト教とは根本的に違ったとは限らないでしょう?遠藤周作の創作でしょ?

僕もちょっと心配になりました。

遠藤周作はカトリック教徒なんじゃないの?カトリックの高名な司教がころび、日本には我々の宗教が根付かないと語る内容(加えて結局ロドリゴも表向き棄教する)は、反感を招くんじゃないのか?

手元にあった遠藤周作集(これに『沈黙』が入ってないんですよね)の巻頭に、三浦朱門によるエッセイが載っていて、この中の一文が参考になります。

「沈黙」が書かれた時、ある外人の神父は、「これでいよいよ、遠藤もカトリックでなくなった」と叫んだ。(中略)ただ、ある高位の外国人神父は私に向かってこういう意味のことを言った。「私は遠藤の小説はよいものだと思います。カトリック信者なら、あれを受けいれることはできます。しかし、信仰を持たない日本人はあれをどう受けとるでしょうか。カトリックの日本精神による敗北と取らないでしょうか」

まさに、僕は信仰心を持っていないからこそ、結局、当時の日本でキリスト教が受け入れられることはなかったんだなと思いました。

加えて、カクレキリシタンの存在が思い出されます。

禁教令が解かれてもなお、カトリック教会ではなくこれまでの信仰のスタイルを貫いた人たち。それはもう土着信仰と言ってよくて、厳密に言えばカトリック教とは違う。

でも待って。現代ならどうだろう。宗教に対する弾圧なんてないし、江戸時代よりは理解があるはずの今。『沈黙』読んだり、映画版を見たりしたとき、日本も酷いことをするもんだと多分多くの人が感じる。

この時代なら、宗教を受け入れることができる国なんだろうか。

布教活動をするキリスト教徒に会った

この記事のことをうっすら考えている折り、家にキリスト教の布教活動をされている方が来ました。

正直、宗教の勧誘(と言って良いのか?)、布教に来る人たちは苦手です。どうしても一歩引いてしまうし、どうやって帰ってもらおうかなと考えてしまう。

聖書は読んだことがありますか?と聞かれればあるのであると答えます。

宗教に偏見はありますか?と聞かれたので無い方だと思いますと答えます(ない方だと思ってる)。

大学では宗教に関する講義があった。学問としては興味がある。そして今丁度遠藤周作について考えている。僕にとっては渡りに船な存在に思えました。

やり取りをしているうちに、宗教に対する偏見はないつもりだけれど、自分が何らかの宗教を強く信仰することとは別だ、ということに関して、誤解されたくないなと思いました。

人を支える力としての宗教、この世界の多くを支配する信仰という概念に興味はあるし、学問として理解したいことはあるけれど、僕が主体的に何かを信仰することはない。

宗教をろくに理解していなくて後悔した話↓

ラマダン中のガイドさんにトムヤムクンを勧めてしまった話

そういうことが通じるだろうか、と思いながら、僕は布教にいらした方と話しました。

やりとりをしている間、宗教に対する忌避感が浮き彫りになってきました。

他の宗教の勧誘にあったときに強く感じたけれど、彼らは僕らの弱みを探しているように見える。僕らの弱い部分を探して、そういうところにつけこんで来るように思う。

困っていることはない?心配事はない?

人の弱さが光明のように見えるのだろうか、と以前、別の方の話を聞いたときに思ったのを思い出しました。

弱いものにほど必要な宗教と信仰

三浦朱門のエッセイに、以下のような箇所もありました。

「海と毒薬」は九州大学のいわゆる生体解剖事件を告発するものではない。まして、九大の医学部の名誉を傷つけるものではない。解剖に参加した戸田や勝呂は作者自信であり、ありとあらゆる弱い人々であること、そして弱い人々の方がその弱さによって、かえって人間の中にある罪をさぐりあて、その恐ろしさにおののくことを書こうとしたものである。

『沈黙‐サイレンス』のキチジローは、もっとも弱い人間ゆえに、遠藤周作の作品の中ではキーとなる人物のようです。

ロドリゴたちを日本に導く、日本の殉教者たちと結びつける、役人の目を逃れるために代表して踏み絵をするなど重要な役割を果たします。

そもそも家族の中で唯一踏み絵を受け入れることで助かった過去があるキチジローは重い罪悪感を背負っています。家族は処され一人残った。家族を思えばと言いつつ生き残ったのは一人だった。

その後も役人が来たら簡単に踏み絵に応じ、ロドリゴを役人に売ったりもした。それでもなおロドリゴに告解を迫り、懺悔のチャンスを得ようとする。

誰よりも信仰を体現できないキチジローが、誰よりもしつこく罪の許しを得ようとする。あさましく厚かましいまでに神を求めては、簡単に神を裏切る。

僕ら弱ければ弱いほど、縋りつく何かが必要なんだろう。

ところが、「何かに縋りつかなければならない奴は弱い」というのは、たぶん、宗教に偏見を持っている状態なんだと思う。

僕らはある宗教に属していて、信仰を持っているのではないだろうか

僕らは何かを信じなきゃ生きていけないんじゃないだろうか。

その信仰によって、僕らは宗教に対する忌避感情を持っていて、布教する人間を遠ざけようして、特定の宗教を信仰する人には近寄らないようにしようと心に決めるのではないか。

偏見がないなら何もかも受け入れれば良い。言われるがままに言われたとおりに誓ったり祈ったりすれば良い。

結婚をすれば簡単に教会にあこがれ、ろくに中身の知らない聖書に恭しく手を置いて永遠の愛を誓ったりするくせに、キリスト教の布教のために寒い中町を歩く人たちには迷惑する。

ただ何かを信じるということについて、意固地なまでに拒否感を抱く。

この拒否感っていうのは、踏み絵なんじゃないか?と思った。

他の宗教を受け入れること、自分が信じているものを否定することに対する拒否感なんじゃないか?

もちろん、確かに、近寄ればろくなことにならなそうな宗教があるのも事実だと思います。

だけど宗教というものに対してただならぬ拒否感があるのもまた認めざるを得ないんじゃないか。

ということは、僕らは何らかの宗教を持っている。何らかの信仰心を持っている。

日本教

ひとつの解答を得た気がする記述が、同じく遠藤周作集の巻末にありました。

こちらは村松剛の評論が載っていて、ここに面白い記述がありました。

日本人の中には「基督教と相容れない感覚」がある、という意味のことを、遠藤はくりかえし書いている。自分の中にさえ、それがある……

「……恐ろしいことはこの日本人の感覚に基督教をうけ入れない何ものかがあることなのです。私は青年期のはじめ頃からこの日本人の謎のような感覚を自分の周囲のなかに、いや自分の中にさえ発見して愕然としました」(「私と基督教」)←孫引きで失礼

このあとに、日本独特の人間観があると指摘している著書にイザヤ・ベンダサン著『日本人とユダヤ人』があるという話が続きます。

『日本人とユダヤ人』は手元にあるので内容を確認すると、「日本教徒・ユダヤ教徒」という章が確かにある。

「再び日本教徒について」「さらに日本教徒について」と三章にまたがって日本教というものを説いているから、かなり根が深い話ではある。

「日本教徒・ユダヤ教徒」から少し長いけれど引用させてもらう。ここはとても面白いのでぜひ読んでもらいたい。

(前略)しかし日本教という宗教は厳として存在する。これは世界で最も強固な宗教である。というのは、その信徒自身すら自覚しえぬまでに完全に浸透しきっているからである。日本教徒を他宗教に改宗さすことが可能だなどと考える人間がいたら、まさに正気の沙汰ではない。この正気とは思われぬことを実行して悲喜劇を演じているのが宣教師であり、日本教の特質なるものを逆に浮彫りにしてくれるのが「日本キリスト者」すなわち日本教徒キリスト派であるから、まず、この両者に焦点をあててみよう。

(中略)

何十年か日本で一心に伝道してごらんなさい。そのうち老人になると、日本人はあなたのことをきっとこういって尊敬してくれますよ。「あの人は宣教師だが、まことに宣教師くさくない、人間味あふるる立派な人だ云々……」

何十年かたったら思い出して下さい。この「人間味あふるる」という言葉の意味と重さを。そしてそういわれたときに、あなたが日本教キリスト派に改宗したので、あなたの周囲の日本人がキリスト教徒になったのではないという事実も。

私は冗談を言っているのではない。日本教の中心にあるのは、前章でものべたように神概念ではなく、「人間」という概念なのだ。

このあと、日本教の「創世記」とも言うべき作品として夏目漱石の『草枕』の一節が引用されます。

おおたしかに……、『草枕』に書いてある。

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三件両隣にちらちらする唯の人である。

僕たちはこの文章を易々と受け入れる。なんの違和感も疑問も差し込まず、夏目漱石が言う「世の中」を受け入れている。

人が世を作るという概念を受け入れている人々の宗教観。何となくピンと来ると思うけれど、いまいち茫漠としていますよね。このあたりをもっとクリアに「日本教とは何か」を探るためもう一歩踏み込みたいところだけどさすがに長くなりすぎるので別の記事に書こうと思います(もうだいぶ長いけど)。

良かったら、宗教観とは関係がないけど『草枕』についての記事があるのでついでに読んでみてほしい。

夏目漱石『草枕』の冒頭は続きがかっこいい。芸術は尊い

日本教についての予習、フランクな理解と考察

日本教とは何か。今の状況で何となく共通理解を得ようと思うと、例えば以下のような言葉に言い換えても良いかもしれない。

日本教は例えば以下のような分派がある。

「男たるもの教」とか「30歳ならこれくらい稼げなきゃ終わってる教」とか「金稼ぎに走る奴は汚い教」とか「オーガニック教」とか、「女は愛嬌教」とか「スポーツ選手は清廉であるべき教」とか「正直な奴が一番教」とか「好きなことで生きてく教」とか「猫最高教」とかいくつもある。

いやそんなのただの価値観の違いだろ?倫理とか道徳の問題で宗教とは違うよ、と思われるだろうし、『日本人とユダヤ人』で言われるところの「日本教」とは少しずれているかもしれない。

確かに、僕も少しズレを感じながら書いているのだけど、日本教について僕が何を言いたいかというと、多様な価値観の中にあって、それでも強力に共感と協調を求める空気の窮屈さです。

何が正しい道で、何が罪となる行為なのかを定める教典はなく、それは人と人の間に流れる不文律によって行動が規定されている面倒くささ。

だから例えば30歳なら年収これくらいじゃなきゃとか言いつつも、金稼ぎを考えているということを表だって言うことは憚られるし、実際本当に金を稼ぐことを目的に据えると軽蔑されたりしてしまう。

30歳なりに稼いで、30歳だからそろそろマイホームを買って、車もそれなりのものを買わなきゃいけないけれど、同時にローンに喘いでいなきゃ「きな臭い目」で見られる。

倫理や道徳なんて崇高なものじゃなくて、「ただの処世術」と言って差し支えないようなバランス感覚が必要とされる。

日本人の宗教観は無宗教ではなく既存の宗教を信仰しバランスを欠くのを好まないだけかも

何か特定の宗教に属することは、人の世に住む僕らにとって不都合なのだと思う。

属するコミュニティや身近な人と、その都度、明文化されていない教典に書かれた文句を探り合い共通倫理としなければならない日本において、何か教典で定められたルールがある宗教に属するというのは非常にリスキーなことです。

僕らにとって何かを信仰するという行為そのものが「踏み絵」なのだと思う。

何かを信じるということは、のらりくらりできないってことだし、逆説的な話になってしまうけれど、「他人は他人、自分は自分」という割り切り方できなくなるということでもある。

日本教は着脱可能という点にうま味があって、だからこそ僕らは「宗教」ではなく「コミュニティ」という言葉で価値観同士が寄りそうのを好むのかもしれない。

ああなんか話が明後日の方向に行きそうだけどまとめ方がわからない。

唐突だけど終わります。

そういえば過去に以下のような記事を書きました。

ここまで読んでくれた方がいれば、もしかしたら面白く読めるかもしれない。ハロウィーンの騒ぎと照らし合わせてみても良いですね。

ネットは世間か、それとも神か。「恥の文化」と「罪の文化」について

『沈黙‐サイレンス』が気になる方は以下からどうぞ↓。

プライムビデオで今すぐ『沈黙‐サイレンス』を見る

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