「綺麗な景色」があるのではなく、「綺麗な景色を見ている私」がいるのだ。
「美味しい料理」があるのではなく、「美味しい料理を食べている私」がいるのだ。
漠然とそんなことを考えます。
僕らは往々にして「綺麗な景色に感動している」のではなく、「ある景色を見て感動する私」に多大な喜びを感じている。つまり何より自分に感動している。
世界に感動するとき、「わたしがわたしである喜び」みたいのを感じていて、そういうものを集めることで知らず知らず自己肯定感なるものが高まる。パワースポットの仕組みはこのようになっていると僕は思う。
これは間違いなくそうだ、と僕なんかは思うのだけど、もしかしたら内向的な人間にとってはそう、もしかしたら僕にとってはそう、というだけかもしれないなとも思います。
僕はあまり世界遺産とか景勝地を訪れて目当てのものを見ても感動しません。今までに一度もないと言っても過言ではないのではないか。一応写真に撮ったりするけれど、惰性で撮ってる感じ。
正直なことを言うと、世界遺産を見るために飛行機に乗って遠くまで行く人の気持ちがあまり分からないのです。
普段あまり大きな声では言えないけれど、わざわざ身体を動かさなくても、景色や建築を見たいだけならもう写真や動画で十分じゃないかと思います。
景色や建築に価値があるなら、誰かが撮ったベストショットを堪能した方が、よっぽど自分の目より信頼できると思う(誰かが現地に行って撮ってくれないと見れないから、直に見たい、記録に残したいという人がいるのは素直にありがたい)。
ただし、これが間違っていることも分かります。
良い小説を一本読むと感動するけれど、例えばこのとき、話に感動したいならわざわざ全部読まなくてもあらすじ(要点)だけ分かってれば十分じゃないかと言われたら、それは違うと僕は言うでしょう。
わざわざ読むことが大事で、自分で積み上げるのが大事なのだ。過程なくして得られるものには感動しない。
なぜなら僕らが感動するとき、それはそれそのものに感動しているのではなく、自分で辿り着いた一種のゴールに、自分の力で辿り着いたという部分に感動しているから。時間をかけて自分の内面に立ち上がる何かに感動しているから。
わたしがわたしである喜びを感じるためには、自分の力で積み上げたものや時間が大切なのだ。
だから自分の足で世界遺産を訪れることには意味があるし、同じく小難しい小説を読み終えるのにも意味がある。
僕がたまたま出不精で、観光地の類に強い興味を持たないというだけで、感動のプロセスは同じはす。どちらも自分にとって必要な栄養で、世界の肯定という大それた試みを通して小さな自分を肯定する。
そう、それは当然そうだろうと思うけれど、同時にこれ僕だけなのかもしれないなとも思うのです。
純粋に自分以外のものに感動している人もいるかもしれなくて、結局自分に感動してるんだろっていうのは極度に内向的な思考を持つ人間だけの特徴なのかもしれない。
まったく自分を無にして、世界のすばらしさに、他人の努力や叡智に感動している人もいるかもしれない。
理解できるけれど納得できないことの一つです。こんなこと一つとって考えてみても、僕の普通は偏った普通なんだろうなと思うし、同時にやっぱり超普通なんだろうなと思う。
「綺麗な景色」があるのではなく、「綺麗な景色を見ている私」がいる。(完)
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