探求心をなくしたら、感動なんてできないんだよ

何かを知ったり経験したりして感動が増えるたび思うことがある。

一つは、世の中にはまだまだ自分なんかじゃ及びもつかない考えや発想があるということ。

もう一つは、何を見て、何を知っても、結局は自分の中にある小さな核に響いているに過ぎないってこと。

こんなの知らなかった!という気持ちと、ずっと前から知ってた!っていう二律背反な感情が、感動というやつには備わっている。

もっとシンプルに言えば、共鳴とか共振といった作用が世界と自分の間で起きていて、多分その振動が感動なんだと思う。

でも心から感動できる機会は少ない。

全米が泣いたからと言って僕が泣くとは限らないから。

偉いあの人の座右の書だからと言って、僕の役に立つとは限らないから。

僕の核に響くものは誰かに教えられるものではなく、自分で探さなきゃならない。

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コツコツと感動を探す

人によるんだろうけど、自分が本当に感動すること、自分の核にぴったり響くものを探すのってけっこう難しいと思います。

僕の場合はけっこう難しいと感じてて、なにが僕の幸せで、何をして喜ぶのかを知るにはけっこうな努力がいると思っています。

イメージ的には研究者の実験みたいな感じです。

一つひとつガラス製の棒みたいなので叩いて音を確かめて、自分の中にある音叉みたいなヤツに響くかどうか慎重に確かめるみたいな作業。これをコツコツやる。

ここまでで何となく分かったのは、僕はしっかり内向的な人間らしく、外に出るよりも内にこもっていた方が感動の機会が多いってこと。

海外(オーストラリア)で一年くらい旅のような生活をしたことがあって、これは今もだけどひきこもりみたいな生活をしたこともある。

我ながらけっこうふり幅は大きいなって思ってるんですが、比べてみると明らかに、ひきこもって本や映画やアニメやなんかに触れた方が、感動の頻度も質も高い。

異論はあるだろうけど、人生を豊かにしようなんて大それたことを考えたとき、思い切って外に出るのも内にこもるのも本質的にはあまり変わらず、向き不向きというか元々のタイプみたいなのがあるんだろうなと何となく思います。

「自分探し」と言えば日本一周とか海外放浪とかが思い浮かぶけど、自分探しって部屋でも全然できるな、と思う。

要領良く感動する

何となく自分の核が響くことが増えると、次は反対に、自分の中の音叉を鳴らしながら、外界の何に響いているかを観察できるようになるんじゃないでしょうか。

言ってしまえば、大人になるに従って、経験が増えるに従って、要領良く感動できるようになってくる。

これツボだ!ってのを見つけるのがうまくなっていく。

でも要領が良くなりすぎてしまうと、感動の閾値が上がったり下がったりしてうまく感動できなくなってしまうこともあると思うのです。

あまりにもこなれた感じで感動してしまうと、ただの確認作業になってしまって、発見や驚きを損ねた感動はもはや感動とは呼べない。

こうなると自分の核がすごく揺らいでしまって焦ります。

探求心を無くしたら感動なんてできないんだよ。

ルナパークには入らずに

感動なんてもっとリラックスしてしろよ、と言ってる自分もいます。そんなに構えて立ち向かうものじゃなくて、感動ってもっとラフでカジュアルな感じのヤツだろ?と。

探そうと思うから逃げられるし、探そうと思わなくなったら見つからなくなるんだよ。丁度良いバランスで行けよ。何気なく探してる素振りを見せずに探すんだよ。

そんな風に歩いていると、オーストラリアですごく好きな場所を見つけました。今日いままで書いてた自分の核に響くとかなんとかってことは、ここで考えたこと。

すぐには真似できないだろうっていう優越感を抱きながらその場所を披露します。

まずルナパークに行きます。

ルナパーク 入口

ルナパークには入場料がかかるので入らないで、その脇の道をずっと歩いていく。

ルナパーク 横

灯かりが乏しくなってくる頃に、入江みたいなところがあります。

そこには小舟が何隻か停まっていて、帆を張るロープ?が風に煽られてマストに当たると、コーン、コーンと鐘を鳴らしたような音がする。

ルナパーク 奥 入り江

僕、ここらへんにあるベンチに座ってフルーツソース入りのヨーグルトを食べるのが大好きでした。

静かな水面の上に差し掛かるブルーのライトも、静かな入り江に響くコーンコーンの音も、甘いヨーグルトも、全部僕の感動だった。

マストに響く音を聴きながら、そうそう感動ってこんな音だって思ったんだよな確か。

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