藤村正宏さんの「エクスマ思考」に便乗して僕の理想の創造で繋がるコミュニティについて語ってみる

前回の記事は、マーケティングコンサルタントの藤村正宏さんのブログに大変共感するところがあり、触発され、ちょっと寄せ気味に書きました(笑)。

マーケティングコンサルタント藤村正宏ブログ 藤村正宏さんのことは今まで僕恥ずかしながら知らなかったのですが、「エクスマ」という概念を10年以上も前から提唱している、有名な方のようです。

詳しくは多分すごく参考になる人は多いと思うから是非藤村さんのブログを見て欲しいんだけど、エクスマというのはエクスペリエンス・マーケティングの略で、モノではなく体験を売るという発想のマーケティング手法なのだそう。

マーケティングと言えば商売って感じがするけど、地域の活性化という点から考えても、この考え方は大事なのかなと。 実際、最近の記事でも

戦わないことが一番の戦略 SNS時代は会社の人柄が重要 戦わないことが一番の戦略 SNS時代は会社の人柄が重要

 

と言ったものは地域の活性を考える上で大きなヒントになるなと思いました。

このブログでは、自分の町が有名になるとか、お金持ちになるとか、ましてや他の地域に抜きんでるということには興味はなく、あくまでこれからの時代にマッチする地域となり、誰かの人生に関わる選択肢の一つになることが目標です。
その前提に立てば、売るとは言ってもここでのマーケティングの意味は消費者の獲得ではなく、コミュニティを形成する同志(もっとライトに仲間?友達)を見つけることです
(この点も藤村さんの考え方に共感するところがあった)。
そして本記事の目的はあくまで藤村さんのブログの紹介なのですが、せっかくなので自分でも改めて「モノを売る、価値を売る」という発想が、特に地域の活性化というフィールドでは時代遅れなのかについて考えて書いてみようと思います。  

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よくある地域の作り方

モノ(実体があるかどうかに関わらず売り物全般)の価値というものは既に飽和状態になっています。

あの手この手で価値を訴えても、どれも珍しいものではなくなっている。 地域の価値や魅力も同じです。 なぜならモノを売るという前提にある以上、「いかに売れるか」、「いかに人が集まるか」という限定的な視点で良し悪しを判断しているし、当然そういうものだろうと思われているからです。

もし、「儲かる」とか「多くの人に注目される」という価値が地域にとっての「正しさ」なのであれば、そういった数字を取り合うゲームは必ず敗者を作りますから、全体で見ると不活性な地域の方が多くなる。

加えて正しさにはそれほどバリエーションがある訳ではありませんから、そういった正しさが限定的であればある程、それに沿って行けば似通ってしまう。

しかし誰もがそんな状況を望んでいる訳ではないから、結局どの地域も良い、どの地域にも魅力はある、というマイルドで優しいところに落ち着きます。 限定的な評価でしか良し悪しを判断できないフィールドに、多様性とかって最近のものらしい概念を都合よく取り入れたりするのです。

いつかの記事にも書いたけど、地域の活性化とか町おこしとかって話題はなんとなく参加することに意味があるって類の町民運動会とかお祭りみたいな趣があります。

大事なのは勝ち負けじゃないよー、でも一応運動会だし、競うところはきっちり競うよー、でも順位じゃないんだよ、やりがいなんだよ、得意な競技で頑張ろうみたいな、傍から見たら何がしたいのか分からない状態。

やりがいとか言うならみんなしたいことすれば良いじゃん。家帰って本読んでて良いじゃん。 ああなるほどあくまで「運動会(地域おこし)」をしたいのね。 運動会(地域おこし)っていう体裁を保てればオーケーなのね、と思います。

そうやって体裁を整えようとした結果、どこもかしこも特産品や名産品がたくさん開発されるようになって、ゆるキャラを作るようになって、イベントの告知や地元の情報発信を頑張るようになった。 そしてどの町も、よくある(地域活性化を目指す)町になりました。

まともでかつ唯一無二な私

誰もが自分は「正しい」という自負心を持っているように思います。

正しいと言うと自信がない人も多いかもしれないから言い方を変えれば、少なくとも自分は「まとも」だと思っているのではないでしょうか。

地域も多分同じです。 自分はまともで、かつ唯一無二だと思っている。

しかし、多くの人が求めるところの「まともさ」や「正しさ」を身に付けて一体何になるでしょうか。 少なくとも自分の、もしくは地域の魅力を誰かに伝える上で、正しいことにどれほどの価値があるでしょうか。

「正しさ」というものは文明的なもので、つまり人工的に作られて記録されたものであって、絶対ではありません。 自分が正しいと思っている人間としてのモラルや常識は、時代や場所が変われば全く通用しなくなる道具です。

同じように、地域の価値というものも「人が集まるか、儲かるか」という限定的な正しさで測ろうとすれば、行先が似通ってしまう。 スキップしながら進もうが、二人三脚で進もうが、道が同じなら良き先は同じです。

多様多様と言いつつ、根本的にやってることは一緒なのです。 これでは、多様性の時代と言われているこれからの時代にはそぐわなくなっていくのは当然です。 もう何度か書いているけれど、人は「正しさ」ではなく「好ましさ」で物事を選ぶということを意識した方が良いと思います。

僕らは理屈ではなく感情を記憶する

それは「理屈」ではなく「感情」でものごとを選ぶということ。 考えてみれば、友達でも遠方の知り合いでも何でも良いけれど、記憶に残っている人ってどんな人ですか?

まともな人、無害な人、普通の人を思い出しますか? その人の正しさとかまともさってそれほど重要な情報ではないでしょう。 めちゃくちゃアホだなこいつ(笑)って思ったこととか、ムカつくこと言われたとか、なんか臭かった(もちろん良い匂いだったでも良い)とか、そういう、感情にリンクする情報しか覚えてないのではないでしょうか。

好きの反対は無関心とはよく言ったもので、「ああーあの人ね、普通にいい人だよ」なんて無関心も良いところな評だし、どこで働いてるかもろくに分かんないし、いつだったか結婚して子供も確か生まれたとかって言ってたけど名前なんて言ったかな?ってレベルだろうけど、まあいいや多分会わないしって感じでしょう。 多くの地域がそんな状態です。

僕はわがままな創造活動をしたいと思っている

地域というものがそのまま一人の人間であると仮定すれば、その価値はけっしてまともであったり正しくあることにはありません。 正しさを求めれば求める程、平均値に近づいていって、存在感がなくなって、印象がなくなってしまいます。

人生で関わることはおそらくないどこにでもいる人と同じように、どこにでもある町になってしまう。 人はステータスや価値を記憶している訳ではありません。

玉の輿狙ってたり仕事のパートナー探してるなら別かもだけど、多くの場合、その人とどんな経験を共にしたか、どんな感情を共有したかというところを覚えているものだと思います。 少なくとも僕は自分の町に消費者が溢れることを夢見ている訳ではありませんし、稼げる町、有利な市場として注目されて幸せなワケでもありません。

自分の町を好きになってくれる人が増えたら良いと思い、この地域が人生のちょっとした場面にでも思い出せる場所、たまに会いたくなる友達のような場所になれば良いと思っています。

そのためにどうすれば良いか。 体験を共にすることです。 だからこそ、どこにいても、どんな立場でも関われる間口。 感情や心象と言ったものを全面に持ち寄って共感を作り出せる媒体。

そういったものを考えているうちに、「創造で繋がるコミュニティ」を用意する必要があると思うようになりました。

いや、必要があるというとまた違って、これは完全に僕の趣味ですから、言わば必要なのは僕にだけね。創造っていうしんどい作業を一人でやるのも良いけどみんなでやるのも良いよねって。 みんなでやりながら、かつ一人の世界に浸りたいという、立ち位置というか関わり方が調節できるわがままなプランを作れないかなと思っているのです。

この町を使って僕好みの娯楽を楽しむことで、誰かの食指が動いて、で、そんな人と仲良くなれたら良いなと思っているのです。  

藤村正宏さんの「エクスマ思考」に便乗して僕の理想の創造で繋がるコミュニティについて語ってみる(完)

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