ファシリテーションのためのファシリテーションを止めてマジで創造的な話し合いをしよう

創造性を刺激する「伝え方」について、「創造社会論」を参考に考えています。

そう言うとさぞクリエイティブなんでしょって思われるかもしれないけれど、多分多くの方が持つ「創造」という言葉のイメージほどクリエイティブではないです。

スポンサーリンク
スポンサードリンク

理解にも伝達にも創造の余地がある

例えば誰かの話を理解しようとするとき、現状を肯定しようとするとき、どうにかして打開策を見つけようとするとき、人は自然に創造的になるものだと思います。

参考記事→理解とは創造的な行為だから、本気でやれば誰でも産む苦しみと産む喜びを味わえるはずだよ

打開策と言っても大袈裟なことではなく、日頃からイラッとすることとか、モヤモヤっとすることってあると思うんだけど、そういうちょっとした負の感情ですら、僕ら感情で生きている人間にとっては大問題です。

ああこの気持ちどうにかしたい!というとき、悪口を言ったり愚痴を言ったりしてモヤモヤを解消する。そういうときだって言っちゃえば自分サイドのイライラストーリーをねつ造しながら語っているのだから十分創造的でしょう。

悪口/悪口 or 創造に至る病

感情ありきのストーリーですから、都合よく省略したりさりげなく構成に工夫を持たせて自分が感じたのと同じイライラを人に伝えようとする

なぜそんなことをするかと言うと、(こんなこと考えながら喋ってる訳じゃないだろうけど)相手の創造性を刺激したいからでしょう。

つまり事実に基づいた作り話と言って差し支えないあなたの「愚痴」に共感してもらいたい、理解してもらいたいという気持ちがあるからこそ、ただ事実を淡々と述べるのではなく、気持ちを込め、丁寧に状況を説明して、どうにかして相手に理解してもらおうとする。

相手はそんなあなたの話しを、どうにかして理解しようとする。

僕たちは相手に何かを伝えようとかするとき、知らずに色々な工夫をして、相手の想像力を刺激しようとします。

そういったことをもっと自覚的に行い、誤解や疑心や決めつけや不理解が横行するコミュニケーション不全に陥りやすい崩壊一直線のコミュニティではなく、健全なコミュニティを作るヒントにできたらと思うのです。

そういう意味での「創造性を刺激する伝える技術」

ファシリテーション入門

で、本題です。

創造性を刺激するとか、そういう場づくりって言うと、ファシリテーションって言葉を思い浮かべる方もいるのではないでしょうか。

コミュニティや話し合いの場でそれぞれの創造性を引き出すって要するにファシリテーションスキルのことでしょ?みたいな。

そうなのかもしれないけれど、じゃあ「ファシリテーション入門」でも読めば解決なのでしょうか。ファシリテートってこうやるんだよって教えられて、機械を動かすみたいに、車を運転するみたいに、使い方が分かれば場は創造的になるのでしょうか。

まあ読んだんだけど笑

しかもめちゃくちゃ参考になったけど。

これ読めば十分なんじゃない?って正直思いました。

初めの章の冒頭文だけでも引用させていただこうと思います。

「組織による問題解決が硬直化している」

という章では

———

私たちは、毎日の生活のなかで、さまざまな問題解決をしながら生きています。問題とは、一言でいえば「望ましい姿」と「現実」とのギャップです。自分が抱く期待、めざす目標や掲げた理想は必ず現実と乖離があり、なにかの願望を抱けば必ずそこに問題が生じます。

問題の多くは一人では解決できず、人にアドバイスを求めたり、知恵を貸してもらったりします。たくさんの要因に絡み合う問題となると、関係する人々が力を合わせないと問題は解けません。(14p)

———

という文章から始まっています。

個人レベルの問題、そして組織レベルの問題。根本は理想と現実の乖離にある。大きな問題は力を合わせないと解決できないが、それがうまく行ってないんじゃないかという風な話が続きます。

このブログで僕が「問題」にしているのは、朝日町というコミュニティがそのうち崩壊するかもしれないってことね。

僕らが問題を解決できないワケ/問題に対する態度の話し

少し飛ばして次の章も引用します。

「行きづまりを見せる社会的な問題解決」

という章では

———

たとえば、身近なところでいえば、コミュニティの問題があります。ようやく日本でも本格的な地方分権の時代を迎え、市民自らの手でまちづくりを進めるケースが増えてきました。いわゆる「市民協働のまちづくり」です。

市民が自発的に集まり、自分たちの問題を自分たちで話し合って問題解決していくのです。

ところが、実際にやるとなると、並大抵の話ではありません。地域共同体が崩壊してしまった今、同じ地域に住むとはいえ、バラバラな個人の集まりです。年齢や職業も違えば、信条や価値観も違います。そんな人たちが一から合意を積み上げていくのですから、互いの考え方の枠組みがぶつかりあうばかりで、いつまでたっても前に進みません。(16p)

———

と書かれていて、まあこんな状況を打開するのが「ファシリテーション」なんですよ、ということでしょう。

ちなみにファシリテーションって何?と思う方もいると思うので、ついでにその説明も「ファシリテーション入門」から引用させてもらいます。

———

ファシリテーション(facilitation)を一言でいえば、「集団による知的相互作用を促進する働き」のことです。(21p)

———

「創造性を刺激する仕組み」と似てますよね。だからこの本僕には役立つのです。

引用してったらキリがないから後は読んでもらうとして、僕が言いたいのは、やはりこういったスキルにも形」だけでなく「コンテクスト(意味、文脈)」(←詳しくは前回記事を参照ください)がなければいまいち詰まんないなよなということ。

ファシリテーションのためのファシリテーション

「ファシリテーション」って少し前からやけに聞くようになって、というかいつのまにか普及されてて当たり前に使う人が増えて来た印象なんだけど、というか「議長」くらいのノリで「ファシリテーター」とかって使ってる人も多いと思うんだけど、僕にとってもいつのまにかいたヤツって感じです。

言葉が一人歩きして普及はするもののガチっとした使い方じゃないことはよくあると思いますが、ファシリテーションに至っては何となくの概念とか方法論だけが独り歩きして、ただ利用しているという場面もけっこうあると思います。

比較的ゆるくかつ人との関わりに積極的な人の集まりで、みんなで話し合いましょうってなったとき、それぞれが意見を発しやすい仕組みとして小グループに分けてそれぞれ紙にキーワードだけ書いてから張り出して、仕分け、ブレインストーミング、そして意見の収斂と言ったやりかた。

肩書や年齢の違いを取っ払うためのアイスブレイクゲーム。人の話しを聞く態度として「ノーではなく、イエス→バットでもなく、イエス→アンド」の会話ルールを徹底しましょうとか、色々あるし色々な方法論が混ざってると思うんだけど、とにかく堅苦しい空気は出さず、とにかくフラットに活発な意見を出し合える場を作って、というところを目的としていることがあるはず。

つまりファシリテーションのためのファシリテーションです。

平和に楽しく意見のぶつけ合いをすることがなんとなくのその場の目的になってしまうと、表面的にはワイワイしているように見えるんだけどその空気を維持する思考が行き渡ってしまって、結局意見ってのは一番平和な(反対意見の少ない)、実現可能性の高い(無難な)ものに行きついてしまって、時間かけた割に結果は今までと変わんねえみたいなことになって何この子供だましってなる。

ファシリテーションの概念は素晴らしいし、その方法論にもそれなりの意味があり、必要に応じて適用することは大事なんだけど、この「必要に応じて」って部分がもっとも大事だと思います。

はじめからスタイルを決めて、こんな具合でブレインストーミングしますよってなったら、それをやるのが目的になって、平和に楽しく話し合いができたかどうかが達成基準になる。創造的な結果になったかではなく。

ファシリテーションのスキルとか概念は知っていると絶対に役に立ちます。

しかしそこに文脈がないのであれば、それはただの形です。有効に利用できず、必然性がないのであればどんな優れた仕組みも形骸化したゴミになる。

「ファシリテーション入門」jは形(やり方だけでなく概念含め)を学ぶにはとても良い本だと思いました。

しかし「文脈」を作り、スキルさえもデザインするのはやっぱり一人一人の仕事なんだよなと思うのです。

ファシリテーションのためのファシリテーションを止めてマジで創造的な話し合いをしよう(完)

スポンサーリンク
スポンサードリンク