「人文学部って一番ツブし効かないよね」からのまちづくり

まちづくりを考える

大学に入りたての頃、バイトの先輩に学部を聞かれて「人文学部だ」と答えたら、「一番ツブし利かない学部だね」と言われたのを覚えています。

からかい半分で言っていたのが分かるからそのときはあまり何とも思わなかったけれど、あとから考えればあながち真実味のないことでもなかったし、実際就職を決める段階において、僕がしてきた、文学や言語や文化のお勉強がどれだけ社会の役に立つかと言われれば甚だ疑問でした。

「人文学はなくても良い」と言われたわけではありません。

だけどニュアンスとして、今後まっとうに大学を出て、企業なりに就職して、お金を稼ぐというルートを描くとすれば、人文学の勉強はそれほど建設的でも機能的でもないのだから、いったいどういうつもりで大学に入ったの?と言われたような感覚はあった。

少々穿った捉え方をすれば、時間を無駄にしてると言われているような気もしたし、いかにも志の低い、社会に出る覚悟がない人間に見られたような気もした。

実際にそういう部分があったから何となくそう感じたに違いなく、胸を張って否定できない辺りが情けないけれども、僕は何となく今、あのとき、自分の進んでいく道を「取るに足りない」もののように扱われたことを少し根に持っているんだろうなと思いました。

だけどその執念に近いわだかまりが結果として、「まちづくり」という分野に僕が打ち込んでいる意味に結実しているような気がして、この辺りを考えると面白そうなので記事にしてみることにしました。

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まちは蜂の巣みたいな構造?

「まち」はいろんな要素が折り重なってできているから、実に多面的で、かつ重層的な構造になっていると思います。

イメージとしては「蜂の巣」。

外見は蜂の種類によって様々なようだけど、たいていどの蜂の巣も、内側には均等な形と大きさの正六角形がぎゅっとまとまって敷き詰めてあるとか、聞いたことがある。いわゆるハニカム構造。蜂の巣と言えばまずイメージするあの独特の幾何学的な形。

それぞれが小さく隔離されているんだけど(たぶん)奥では繋がっていて、とにかく表面的にはあの六角形が立ち並び、またそれが何層かに重なることで全体としてなんとなくある程度の大きさの丸っぽい固まりになって、一つの整然としたコミュニティ(巣)になっている。

合理的で頑丈な六角形の連続を、くるっとまるく寄せ集めることで、前も後ろもない多面的な球体ができ、奥に行けば行くほど秩序だってくる。

この感じが「まち」にもあると思う。

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なぜ人間は蜂のように生きないのか

いや人間のつくるコミュニティと蜂の巣は違うだろう明らかにと思います。

人間のコミュニティは、あそこまで合理的にできていないし、秩序だってもいない。

生き方、働き方、家族の作り方、遊び方(蜂って遊ぶの?)の、どの面を見ても、蜂の社会よりずっと人間社会は混沌としているし、あそこまで整然ともしていない。

それはなぜかというと、人間は合理的に動く動物ではないからですよね。

人間だって、みんな同じ、頑丈で面積的に効率の良い住居をギチギチに構え、与えられた役割だけを淡々とこなして生きていれば良いのですが、絶対にそうはなりません。

合理性を求めれば画一的にならざるを得ず、画一的な生き方の前に個人の意思や好みは必要ありません。

もっともコミュニティの生存確率の高い方法で構築された方法論の中で、決められたように生き、決められたように命を投げ出すのが人生ということになります。

そんなんむりむりって言うのが人間ですよね。

でも知ってのとおり、そういう無理がまかり通る時代だってあった。人が決められたように命を投げ出す戦争があった。

必要に迫られば、合理を貫くという不合理ができてしまうのもまた人間で、それでもその選択は決して機械的なものではなかった。

人間に必要なのは合理ではなくあくまで納得だということだと思う。

過ちや悲しみを経てアップデートしたたくさんの納得が寄り集まって、多面的でかつ重層的な構造をもつものこそが、規模の大小に関わらず、人間がつくる文化であり、コミュニティなのだと思うのです。

僕らに必要なのは合理よりも納得

なにが言いたいのかというと、やはり根に持っているのですね、「人文学部は潰しが利かない」というあの発言に対して何となく抱いていたモヤモヤに何か言い返すとすれば、「人文学が司るのは機械的な合理ではなく、人間的な納得である」ということ。

そしてそれは、まちづくりについて考えている今の今、すごく必要なものだと思うということ。

もちろん、だからと言って人文学の方が偉いんだぞと言っているわけではありませんし、そもそも人文学の分野が無駄で意味のないものだなんて言われたわけではありません。

確かに就職とか収入のことといった身近な視野で考えれば、人文学部のお勉強は不利かもしれないです。合理的で建設的なことを考えるのは大事だし、あのとき先輩はそういう部分に視点をあてていただけなのだから、モヤモヤはしたものの、反感のようなものはありません。

しかし、生き方や働き方と言った巨視的、と言えばちょっと大げさだけど、少し自分を越えた俯瞰した場所から人生や社会を眺めることも一つのやり方で、そういう視点で僕たちの人生に必要なのは「納得」だろうということ。

そしてやはり構造的には、蜂の巣と同じように、合理を包み込むように納得の膜で丸く包んで、前も後ろもあいまいな状態で、なんとなーくコミュニティを作るということを意識する時代が今なのかなと思います。

だから僕はあくまで人文学的な視野と方法で、誰かの納得が生み出せるまちが作りたいと思っている。

その手段が創作なのか、文章なのか、会話なのか、そのすべてなのか、他のやり方なのか、分からないけれど、少なくとも「納得」という得難いものについてよく考えられる人になりたいと思うし、よく考えられる時間が作れるまちなら良いと思う。

まちづくりと人文学

もしかしたら今は、「まちづくり」も合理が先に立つものなのかもしれません。ハニカム構造がむき出しみたいな状態。シンプルでそういうのも良いけど。

まちづくりのセオリーが生み出され、正しい方法、効率的な方法、合理的な方法がシェアされて、機能的に住みよいまちは作られるのかもしれない。

それは喜ばしいことだと思うけど、僕らはそれだけじゃいけない。

僕らは誰から見ても幸せな状況であっても、納得ができなければ幸せにはなれない生き物です。お金を持っていても、家族に囲まれていても、立派な家を建てても、多くの人から尊敬されていても、幸せになれるかどうかは分からない。

そんな人間が固まってぼやっと形を成すコミュニティであるまちだって同じように、合理性や正しさだけでは足りない。

正しいだけでは満足できなくて、間違っていると分かっていることでも止められなくて、割り合わないこともするし、全然合理的にも機能的にも生きられないのが人間です。

そういう人のどうしようもなさと可笑しさを肯定した上で、んーって考えるのが人文学という分野だと思うし、人間が暮らすコミュニティについてああだこうだと考えるまちづくりという文脈の上には、絶対になくてはならない学問だと僕は思う。

いやだから「人文学は不要」と言われたわけではないし、人文学の必要性や有用性をムキになって説くのでは言ってることとやってることが違う(人文学をまちづくり上の合理にしてしまってる)感じになっちゃってんーって感じこの上ないんだけど、こういうままならなさを楽しむ学問でもある。

 

「人文学部って一番潰し効かないよね」からのまちづくり(完)

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