成功しなければ失敗なのか/視線がすくうものについて

成功しなければ失敗なのか。

こういう風に問われれば、現代社会ではノーと答える人の方が多いと思います。

しかし一方で、誰にそうと言われたわけではないけれど、僕らは成功しなければならないと思い込んでいる節もあって、多分実際に、ある程度の成功を収めなければすごく惨めな思いをすると思います。

だから成功できないならせめて失敗しない生き方をすべきだと思っていて、理想とか好きなこととか、そういう高望みに対して、適当なところで見切りをつけることが大人になることかのように思ってしまうことがある。

その感覚はきっと古くなりつつある。

失敗しても良いとか、夢を持てとかお金より大事なものがあるとかって類のキレイごとはただのキレイごとではなく、とてもドライな生きる糧になる。

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僕の場合「作家」

作家になるのは困難です。困難極まりないことです。

これは難しい話です。どこからが作家なのか、現代ではわかりにくくなっているからです。

出版社からデビューしてやっと作家なのかもしれませんし、自画像が作家ならば作家なのかもしれない。

ひと昔前と違って、作品を人に見せる場は増えています。

僕はnoteで短編小説を載せます。

書いてるときは楽しいです。無限に書くことがあるように思えますし、悔しい作品も多々ありますが、そういう経験により、枝分かれするように作品が生まれていきます。

例えば、このまま100本書いたら僕は作家でしょうか。足りなければ1000本。

それだけじゃ誰も認めてくれないというのであれば、例えばこれでお金を稼げるようになれば作家でしょうか。いくら稼げば作家でしょうか。それとも売り上げの多寡は関係なく、やっぱりどこかの出版社から本を出してデビューしなければ作家とは呼ばれないでしょうか。

僕の人生や、僕が情熱を傾けるものの失敗とは何で、成功とは何なんでしょう。

みんなの書斎

僕は みんなの書斎を作っています。

これは小説家に会いたいからです。また、「作家」の新しい形を作るためでもあります。

僕のまちで創作の合宿を行い、それぞれ自分が設定した目標を達成し、少しレベルを上げて、小説を書くという行為を通して、人生に少しでも輝きを還元できるような営みになればよいと思っています。

また、ここではあまり詳しく書きませんが、地域で物語を書くという行為が、地域にとっても書く人にとっても価値を持つようになればよいと思います。

簡単に言えば、「作家」として生きるフィールドを「文壇」と「WEB上」に加え「地域」に創ろうという試みです。作家というアイデンティティが地域で認められる存在になれば良いと思っています。

一口に小説を書くと言っても、参加しようとするフィールドにより違った目的をもっていると思います。文学賞に応募しようとして頑張ってる人、WEB上で連載中の作品を持っている人、あくまで趣味で書いている人、もしくは書きたい気持ちはあるけどまだ書く勇気が出ない人。

きっとそれぞれ成功と失敗があるのだと思います。漠然と作家になるなんて外界に判断がゆだねられるよりずっと細かなステップがある。

今日中に何文字書きたいとか、ある場面が浮かんでいるのだけど表現が決まらないとか、小説を書くためのツールを買うとか、そういう一歩先の目標があると思います。

多分みんな失敗します。ほかのいろいろなことにも言えることだけど、小説を書くというのはとても難しくて、満足することは不可能に近いと僕は感じています。

失敗に至るはなし

例えば一日書きなぐって、愚にもつかない駄作を生み出す。とても読めたものじゃないもの、ウケを狙いすぎて滑ってるみたいな、恥ずかしいものを書いてしまったとする。

失敗の例は残念ながらいくつも挙げることができる。僕はいくつも失敗を積み上げているから。

まったく時代にそぐわない、現代性のかけらもない、小さい頃に読んだ本をまだ生まれたての小鳥みたいに追いかけているだけのものを書いてしまうかもしれない。何百人が発想したことをドヤ顔で書いて芸術とか言ってしまうかもしれない。

どうやら作家への道はまだまだ遠いらしいと僕らは感じながら生きている。

僕が誰かと一緒に創作をしたいと思うのは、そういう失敗をただの失敗にしなくて良いと思うからです。

またくだらないものを書いてしまったって五右衛門みたいになってても、「でもすごく集中してたの知ってますよ」って伝えることができれば良いなと思う。場合によっては。

へこんでたらへこんでますねって話ができると思う。それがなんなのって話ではあるけど、ただ、人のそういうところ知るのは悪くないと思う。

キレイごとだし慰めにならないかもしれないけれど、書き疲れた後一緒にコーラでも飲んだらさらにちょっと良いかもしれない。

くだらない小説を書いてしまったけど、ちょっと良い日にはなるんじゃないか。

視線は何かをすくうのではないか

失敗なんて無いなんてことを言いたいわけではありません。失敗してもやり直せばいいんだよ、みたいなことを言いたいわけでもないです。頑張ったならそれはもう成功とか小学生に言うようなことを言いたいわけでもありません。

失敗はある。何かを目指せば、何かをやろうとすれば必ず失敗は起こるし、そこから目を逸らすことは誰にとっても良いことではないと思う。でもそれは正すようなものでもなく、ただ経験することである。

僕らの人生、成功しなければ失敗なんだろうか。

失敗を肯定したいわけでは決してないし、失敗を必要以上に美化したいとも思っていないけど、「世間の失敗と見なす雑さ」みたいなものには中指を立てても良いんじゃないか。

僕が言いたいのは、視線は何かをすくうのではないかということです。

現代のように人の視線が遠く離れた時代、言うなればバーチャルな視線のみで人に判断される時代、視線の取り合いみたいなことが起きて、人目を惹く物事というのは良くも悪くもハッキリしている。

近くで見なきゃすくえない部分がたくさんあるのではないかと思うのです。近くで見ることですくいあげることができる場面がたくさんあるように思う。

また、小説を書くという行為は「視線の記録」だという感覚もあります。

ただ事実を書く、感情を書く、景色を書くということじゃなくて、ごく個人的な視線に意味を乗せる行為だと僕は思う。

だから、僕は誰かと一緒に小説を書きたいと思うのです。

見る見られることで生まれる物語があって、それは語ろうと語るまいと、心に残るものになるはずだと思うからです。

世間的にはただの失敗かもしれないけど、ただ失敗というだけじゃない何かっていうキレイごとを、生きる糧にできるコミュニティがあれば良いなと考えています。

成功しなければ失敗なのか/視線がすくうものについて(完)


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