ファンが集まるコミュニティ。信者が集まるコミュニティ。

熱狂的なファンを「信者」と呼んだりすることがあります。

例えば僕もこのブログでいくつか記事を書いているラーメンズ。

彼らのファンは信者と呼ばれやすいかもしれません。

ラーメンズの傑作コント『採集』から「怖さ」を学ぶ

また、このブログでは何度か「物語シリーズ」にも言及していますが(ほぼ羽川さんの話だけど)、この作品のファンもやはり「信者」と揶揄されることが多いのではないかと思っています。

羽川翼の話をしよう/「完全に正しい」という異常な個性について

「ファン」と「信者」の違いはなんでしょうか。

この二つの言葉を比べたとき、「信者」と呼ばれたときの方でいやぁな感じがするのはなぜでしょうか。

でもなんか、だいたい分かりますよね。

宗教がしばしば理屈や論理を越えて人の行いや思考を規定するように、「作品や人に対し盲目的に理解する姿勢」を指して「信者」という言葉が使われる。

くだけて言えば、「〇〇のファンは〇〇のやることならなんでも受け入れすぎじゃない?」ってところを指して、ちょっと馬鹿にしてる。

この記事の目的は、以上の話から「まちづくりにおけるコミュニティ作り」において気を付けたいことを考えていきます。

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好きで繋がるコミュニティ

「まちづくり」の一つの側面として、「コミュニティ作り」というものがあると思います。

コミュニティとは例えば相互扶助の関係。ある程度助け合って、補い合ってみんなで生きようという人間の集団。

市町村がまちづくりに躍起になっている背景には、単に人が少ない、減っていくということだけでなく、この相互扶助の機能が失われつつあるという危機感があると思います。

僕も「まちづくり」をこのブログで考える上でこの機能は必要だと考えていて、流動的でありながらそういう機能を持ったコミュニティを作ることはできないだろうかと考えています。

そのときのメンバーに安心感を与えられて、かつそのコミュニティがあることで地域も安心できるような。

とは言え基本的に僕は性格的に一致団結とか一丸となってなんちゃらにあまり向いていないと自覚しているので、「隣人同士の強い結びつき」とかに抵抗はあるし、なんなら「助け合い」という言葉を口にするのも憚られるところがあります。

助け合いという行為が嫌なんじゃなくて、そういった善性を言葉で確認し合って安心する空気に辟易してしまう。

相互扶助とかそういうところはもう少しドライに、あまり感情は使わず、みんなで協力した方が合理的なところはみんなで協力したらそりゃ良いよねというスタンスが窮屈じゃなくて良いんじゃないかなと思います。

「生きる」ことはまあ前提として、普通に生きて、しれっと寝て起きて食って、その上で何しようか、どうしようか、どうすれば今日楽しいだろうという点を考えるのがなんかコミュニティの在り方として現代的なんじゃないかな。

だから、相互扶助と言っても生存とかは基本オプションであって目的じゃない。

「その上でどうすれば楽しく時間を使えるだろう」ってところが大事だから、「これが好き」っていう共通点がある人同士が集まった方が普通に楽しいだろうし、謎の信頼感もあるだろうし、結果的に「助け合う」って部分も気負わず、押しつけがましくなくできるんじゃないかって考えています。

このブログではちなみに、「文芸」とか「創作」とか「物語」といった部分の好ましさを伝えたくて書いていて、僕は町のコミュニティスペースにオリジナルの作品を揃えたオリジナルの図書館を作ろうって考えます。

書くでも読むでも良いけど、物語に没頭できる素敵空間を作りたい。下位の要素として「会話」とか「内省」ができる空間がある。それぞれの人生も物語だからね。人の話がゆっくり聞ける場ってのも良いですよね。

でも、この「好き」って部分がクセモノだよねって話です。

見ようによってはこちらがどんな気持ちでいようが外からは信者に見えたりすることがある。

信者と呼ばれる人が集まるコミュニティ

好きという感情で集まった人々は信者めいて見えることがある。

そういう「好きで繋がったコミュニティ」が本当にできたとする。

自分で書いててこんなこと言うのもおかしいのかもしれないけど、実際こういう類のコミュニティってなんとなく宗教めいてるというか、特殊な人間のかたまりみたいな印象ありませんか。

いや偏った嗜好を持った人同士が集まったら少なからず特殊な空気になるのかもしれないけど、もっと危険な、近寄ったらマズいんじゃ…みたいな空気。だってあそこらの人ってみんな洗脳されてるんでしょ?みたいな。

ラーメンズは悪くないけど信者がキモいんだよなーみたいなコメント?見たことある人もいると思うけど、それが町とかの単位で起こるとマズい。町に罪はないんだけどあそこに集まる人たちおかしいからな、みたいな。あんま深く関わらない方が良いよって。

「まちづくり」の観点で言えば本末転倒というか、逆にそこでしか生きていけなくなっちゃう人がひっそり寄り添う秘境みたいになったら(それはそれで面白いかもだけど)一風変わった福祉団体(という体の宗教団体)になっちゃうんじゃないの。

これは避けたいところ。僕教祖になっちゃうじゃん。想定外の職業すぎる。

盲目的な理解もコミュニケーション不全を起こす

こうならないためにどうしようか?ということを考えるのが多分今日のテーマなわけです。

町に「信者」じゃなくて「ファン」を集めるにはどうすれば良いか。

なに人が集まる前提で言ってるの、どんな形でも人が集まれば御の字だろお前の町ならって感じかもしれないけど、とりあえずそこは大目に見てほし。

ここで考えたいのが、「盲目的な理解」というキーワードです。

信者の特徴は、誤解を恐れずざっくり言えば「〇〇のこと無条件で受け入れすぎじゃない?」と思われる人だと思います。全肯定かよ…みたいな。

つまり「思考停止」。一種の依存状態。信じることが目的になってしまって、信じた先の主体的なビジョンがない。とりあえずついてきます!てヤツ。

なぜ文明は崩壊するのか。なぜ夫婦やカップルの関係は破綻するのか。きっと原因は同じだ

という記事で、コミュニティの崩壊と思考停止の関係については書いたことがあるのですが、ここでも崩壊の原因は「思考停止である」と書いています。

問題を共有できないこと、話が伝わらないこと、会話にならないこと。

そういう類のコミュニケーション不全が起きたときに、コミュニティは崩壊する。

この場合は無理解が問題ですが、盲目的な理解や肯定もまた、コミュニケーションの不全だと思います。何言ったって信じちゃう、なんでもそうですねーって言っちゃう。そうなれば、そのコミュニティは強固かもしれないけれど、機能しているか?と言われれば言葉に詰まる。

信者が集まるのは避けたいねって言う理由はここです。コミュニティとして機能しない。

つまり、町の一部として他とコミュニケーションが取れるのか、町の一部として認められるのか?という、幾分社会的な要素の問題。

だからこそ、とりあえず「生存(言う通りにすれば絶対稼げる系のも含めてかな)」という目的は意地でも二の次にするべきだと考えています。

なぜなら、「生存」を目的にして寄り添ってしまうと、そこから抜け出すことが精神的なリスクとなり、結果的に人が場所に縛られる。生きる領域を限定することになる。

入ったら出てこられない場所に見えたり、本人たちは幸せそうでも傍から見て憐れに見えすぎてしまうと敬遠される。

まだ感覚的な話でしかないけど、それは現代のまちづくりのやり方としてどうなの、という感じがあります。

好きを共有しきらない

どうなの、という感じがあるだけで、これ以上具体的な考えがあるワケじゃないんですよね実は。

そういうのはまちづくりとして違う気がするんだよな…、好きなものやことで繋がるというのは良いとしても、一歩間違うとおかしなことになりそうだよな、という段階。

じゃあどうすんの?ということを考えようと思って書いたのだけど、これ以上言語化できるほど確固とした何かがない。

それでもむりやり今の段階で言語化すれば、「これが好き」とか「ここが好き」といっても「これ」とか「ここ」が特定できないくらいの好ましさで繋がれたら素敵だと思う。このあいまいさ、ファジーさを許し合えるかが、ファンと信者の境目なのではないか。

説明できないしっくり感。あえて口にするほどのことでもないお気に入り感。

なんか多分、好きという好ましい感情だからって、共有しきっちゃいけないんだと思うんですよね。共有できるはずだとも考えない方が良いと思う。

ほんと何となくの話で申し訳ないんだけど、それこそこういう何となくいやぁな感じがもしかしたら誰かに伝わるかもしれない程度の確かさで、好ましさも伝われば良いと思う。

信者って言葉に合わせて言えば、言葉にして形にして共有してしまった時点で、それが経典みたいになって、それがコミュニティ全体の総意になってしまう。

好きだという主体的な感情だからこそ、主体性を手放さないために言葉にしない領域みたいなのをみんなが持ってて、お互いちょっと気になりつつ、核心には触れないように気をつけつつ、「あれっすよね、なんか良いっすよね」くらいでぱやぱやしてるみたいなコミュニティ作りを僕は目指してるんじゃないか。

本当に好きなものは教えたくないという心理

っていう記事も書いたけど、好きって感情はけっこう大事なものだと思うんです。少々乱暴に言えば、分かられてたまるかって気持ちもちょっとあるみたいな。

でも頑張って伝えようと思えたり、伝えたいなと思ったときには分かってくれそうな人が傍にいたりすると嬉しい。

そういうのが「好き」という感情で繋がるってことであって、生きるという目的よりもっと高次の安心感を作る。

謎の信頼感ってその辺にあるんじゃないかと思う。

ファンが集まるコミュニティ。信者が集まるコミュニティ。(完)

見せるタイプのメモ

なぜ僕は「好きなことやもの」でつながることにこだわるのか。

理解できる範囲を限定するメッセージ?

他者と対話したい他者を理解したいとは思っても、なんでも理解できるわけじゃないしなんでも理解したいわけじゃない。

「まだ言葉にできないけどこの人は分かってくれそうな領域」を示すためにブログを書いてる気がする。

それぞれの理解可能領域というか、どんな分野やタイプと親和性があるのかを示すことで、誰かがそこを目指しやすくなるのではないか。

地域にある個性が鍵穴だとすると、個人の個性が鍵になる。あそこならこの鍵が使えそうだと思われるような場所になるように、地域も個性的であると良い。

まちづくりは競争じゃないと思うって記事と繋がる?

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